クリスマスを前に


クリスマス・ソングを耳にする季節になり、ふと気づいた。イエスは生れたときから救世主だった。「ザ・ファースト・ノエル」でも、「諸人こぞれり」でも、生ればかりの赤ん坊なのに、すでに「神の子」。今まで考えたことはなかったけれど、これは重要ではないか。

私の知る限りは、釈迦は生れたときはシッダルタであり、釈迦ではなかった。つまり普通の人間の赤ん坊として生れた。マホメット然り。彼も啓示を受けるまでは、いや、それ以降もただの人だった。

事実はそれほど単純ではないだろう。実際には、生れたときから「神の子」として受け入れられたわけではないに違いない。成長し、洗礼を受け、さまざまな奇跡や布教活動をして、十字架に倒れたあと、彼の生れてからのすべての行状が「神の子」のそれとして書き換えられた、それが、聖書の実態ではないだろうか。いずれにしろ、キリスト教の内部では、イエスは生れたときどころか、生れる前から「神の子」と思われている。

つまり、記述は後付けであるとしても論理の上では、イエスは救世主に仕立て上げられている。仕立て上げたのはもちろん、周囲、すなわち出来上りつつあるキリスト教共同体。彼は生れたときから口をきいて「私は神の子」と言ったわけではない。青年になり、啓示を授かり、洗礼を受け、苦行を経て、「神の子」の自覚を持ちはじめた。自らは名乗ってはいない。

不思議なのは神の子であるのにもかかわらず、神の子でない者から洗礼を受けたり、荒地で悪魔と対決したりしなければ自覚をもてないこと。新約聖書に残されているイエスの伝記を、救世主である自覚と周囲からの期待に葛藤しながら、自覚と責任感を深めていく過程とみるのは間違いだろうか。

救世主としての自覚が完全になったとき、イエスはすでに預言されている受難の道へ進まなければならない。そう考えると、イエスを十字架に向かわせたのは、ローマ人でも、パリサイ派ユダヤ教徒でもない。イエスを生み出し、育てたキリスト教共同体のほう。だからこそ、その悔恨が信者の一人一人へ戻ってくる。救世主を望み、預言の実現を望んだことは、同時に罪の自覚と悔い改めを信者各人に要求しないわけにはいかないから

そのように考えると、キリスト教とは、信徒の共同体を前提にして、救世主の出現、受難を経て、信徒一人一人の自覚と責任(原罪意識と悔悛)へと向かう、いわば共同体と個人の間に揺れる精神の力学と言えるのではないだろうか。キリスト教を基盤とした西洋社会は個人主義の社会と言われる。強烈な個人主義は、実は強烈な共同体主義の裏返しではないだろうか。

こんなことは、キリスト教を学んだ人信仰をもつ人には、今さら語ることではないのかもしれない。街に流れるクリスマス・ソングでしかクリスマスを感じたことのない私には、少し考えるきっかけになった。


碧岡烏兎