硝子の林檎の樹の下で 烏兎の庭 第四部
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2.5.11

イエスの父はいつ死んだか―講演・論文集、佐藤研、聖公会出版、2010

Pen、2011年1月15日号、特集―キリスト教とは何か。Ⅱ、阪急コミュニケーションズ、2011


どこで見かけたのか、「イエスの父はいつ死んだか」という書名が気になり、メモを残していた。どこで見かけたのかは書き忘れている。新聞広告か、東京駅前の大型書店だったか。新幹線での出張の帰り、ときどきこの書店を覗く。

何度か図書館で検索してみたけれども、見つからない。そこで思い切って買うことにした。置き場所がないので、ふだんは本は極力買わないようにしている。北米出張の前東京駅の大型店で買い、機内で読んだ。書棚の前に立ったとき、やはり、最初に見かけたのはここだった、という気がしてきた。

搭乗前、空港の書店でキリスト教を特集しているグラフ誌を見つけた。文字の本を読みながら眺めるために買ってみた。

本書は講演・論文集で書名にある「イエスの父はいつ死んだか」はそのうちの一章に過ぎない。この書名は編集者が著者の意向は聞かず半ば強引につけたものらしい。そのおかげで、私はこの本に出会えた。ほかの書名だったら、手にとることはなかったかもしれない。ところが、読みはじめて興味を引いたのは、書名以外の章だった。


読み終えてみると、これまで読んできたキリスト教関連の本のなかでもっとも含蓄のある本だった。いや、そうではない。少ないながらも、これまでの読書があって、はじめて本書が問いかけている深い意味を読み取ることができるようになっていたと言うべきだろう。

講演や雑誌へ寄稿した文章が多いので、文章そのものは難しくはない。また、著者の態度は一貫して謙虚で、「一つの問題提起であって、批判的に受け止めてほしい」という表現に何度も会う。「オレのようになりたければ、こうしろ」という説教調や「オレの知っていることを教えてやる」という読者を見下した態度の本ばかりが増えている昨今、こういう控えめな文体は極めて稀有。同じ聖書学研究者でも、他説を徹底的に批判する田川健三とも姿勢や文体はまったく違う

グラフ誌では有名な絵画や聖地と呼ばれる場所や聖堂の写真、聖書の重要な場面を描いた名画などが紹介されている。

情報源として役立つし、眺めていても楽しい。ただし、新しい専門書を読んでいると、細かい部分では聖書学の新しい知見では覆されている通説に従っているところもある。専門誌でないグラフ誌では毎週まったく異なる特集を組むから、深い知識を期待してはいけないのだろう。


キリスト教とは、イエスが始めた宗教ではない。師を失った人々が悲嘆のなかから生み出した宗教。本書で詳述されている歴史上のイエスという人物は、宗教者というよりは、社会活動家に近い。

この視点は、宗教が権威・権力となり人々を抑圧する社会で、イエスは、そういう宗教そのものに対抗した、という田川建三が描くイエス像とも接点がある。

石井はさらに一歩踏み込み、イエスは「神の国」が近づいたことを言葉で宣べ伝えただけではなく、行動でも表したという。「神の国」には病気もなければ、差別もない。だから、現実社会で虐げられている人々のなかに分け入り、その人たちと食卓を囲む、その行動が「神の国」が到来していることを示していた、と石井は考える。この見方は、私には非常に新鮮だった。

神がいるとかいないとか、信じるとか信じないとか、そういうことは問題ではない。一神教か多神教かということさえ、問題ではない。

神が支配する楽園にあたかもいるかのように振る舞うこと、現実社会のなかで自分の神経の隅々までをむしばんでいる常識や偏見、しがらみ、そうしたものをすべてを脱ぎ去り、子どものように世界を見て、行動すること。それは、「神を信じる」と言葉で言うよりずっとずっとむずかしい。


「罪人」とは、その当時の社会で底辺や周縁に追いやられた人たちに押された烙印だった。イエスはそのような社会的なスティグマとしての「罪」を打破していった。田川の議論はここに力点がある。とはいえ、イエスのなかでも旧約聖書以来の「罪」の一義的な意味――してしまった悪いこと――は消えていない。

イエス以降の「宗教」としてのキリスト教はヨーロッパへと広がるとき、「罪」という意識を内面化させていきながら「自我」という概念を生み出した。アウグスティヌスは生まれたばかりの赤子でも原罪から免れてはいないとして、原罪の概念を拡大した。

この第一の「罪」と、石井が指摘する、イエスが喝破したスティグマとしての「罪」とはどういう関係にあるのだろう。

キリスト教について考えるとき、しかし、私の関心は、そことは違うところへ向いていく。


本書を読み、自分の関心はイエスの教えにあるのではないことを強く思いかえした。私の関心が向くのは、イエスの教えを受けた人たちがイエスの死後に経験した心の移り変わり。彼らの深い悲嘆と後悔、にもかかわらず、著者が客観的に「イースター事件」と呼ぶ「復活」という経験を通して彼らが得た「ゆるし」、そこから生まれた「信じる気持ち」

一人の人に出会い、ずっとともに生きていくと誓いながらも、その人の無残な死に方を前にしてたじろぎ、うろたえ、しかし、悲嘆のなかでその人が生きた意味を自問し、問い返しつづけるなかで、失ったはずのその人を生きていたときのように、あるいは、生きていたときよりさらに強い絆で結ばれた存在として胸に刻む

そういうことが、ほんとうに起きたということに、まず驚く。そして、その「信じる気持ち」が直接その人を知る人から、その人を知るはずのない地理的に遠い人、知ることができないはずの時間的に遠い人にまで伝わっていく不思議。

どうすれば、そんな気持ちになれるのだろうか。私の関心は「神の国」よりもずっとずっと手前にある。



uto_midoriXyahoo.co.jp