バカと普通について「バカ」と名のつく本ばかりが売れているらしい。それを論評する文章も多く見かける。大げさに言えば、バカが時代の言葉になりつつある。 バカが書名に増えたのは、読者が馬鹿にされているからだという見方は、正しいようにみえて、ものごとの一面しか見ていない。いくらなんでも自分を馬鹿にする本を買う人は多くはないはず。最近の濫用をみていると、馬鹿というのは書き手の見方より、むしろ読者の自意識に起因しているように感じられる。 あらゆる物事が細分化し、専門化している時代にあって、何かを知ることが難しくなっている。毎日毎日、何かしら新しい専門用語が新聞、テレビに登場し、それを解説する専門家がその都度、現れる。こうなると誰もが多かれ少なかれ専門知識に対する劣等感をもたざるをえない。 自分は何も知らない、まったくの素人。こうした感情から、バカという言葉が読者に共有されてくるのではないか。その読者の劣等感を著者が共有しようとするとき、わかりやすく書かれた解説書が「バカでもわかる」と名付けられ、読者の支持を受ける。つまり、読者を馬鹿にしているのではなく、馬鹿だと卑下する読者に媚びるからこそ、書名に馬鹿が用いられる。 劣等感の裏返しは、尊敬ではなく、実は蔑視。極度に細分化した専門知識は関わりのない人にとっては無用の知識であり、少し関わりのある人にとっても、必要以上の知識は無駄にも思える。そうなると、専門分野を熟知している人が、学ぶべき先達というより、必要のない知識を不必要にもった、いわゆる専門バカに見えてくる。 バカが書名についた本には二種類ある。一つは、読者がバカとされている本。これは今書いたように、読者が蔑まれているのではなく、むしろ一般読者が抱いている劣等感を共有しようとしている。 もう一つは、専門家のほうを馬鹿とみなしている本。各界で活躍する専門家や論壇をにぎわす評論家、コメンテーターを一刀両断でこきおろす本が、ここのところ目につく。こちらは一般読者のルサンチマンをくすぐる。そうした本では、専門知識をもっていることが格好いいのではなく、それを振り回すことが裸の王様のように見られている。 馬鹿とされる立場は正反対であっても、二つの感情は専門知識に対する劣等感に根を張っている。専門家はある分野の深い知識、あるいはある分野での成功体験をもとに語る。一般読者はそうしたことができない。それを残念に思う一方で、ある分野に限られた知識や体験だけから物を言う姿勢に胡散臭さも感じている。そこから今度は、バカではなく、普通という意識が浮かび上がってくる。 普通という言葉も、バカと同じように実に多用されている。しかもバカと併用されていることが少なくない。専門家をバカとするような本ではもっぱら著者は自分は普通の人間だから、あるいは、普通の人間として専門家の横暴に異を唱えるという前置きをしている。ここでいう普通は凡庸という意味ではない。専門家の特権意識、選民意識に対抗する意味で用いられているのだから、反権威と言い換えられるかもしれない。 多くの人は専門知識をもたない、成功した得意分野をもたないという意味で自分をバカだと思っている。その一方で専門知識や成功体験を振り回す専門家や成功者をバカだとも思っている。それは、専門知識も成功体験もない自分、すなわち「バカ」であり「普通」である自分にもバカなりの、普通なりの生き方があると信じているからだろう。 そう信じるのは間違ってはいない。自分を過剰に卑下したり、他人の能力や成功を羨んだり恨んでみても仕方がない。それより自分なりの道を探す方がいいに決まっている。しかし、注意しなければいけないのは、普通という言葉は反権威として意味あるのであって、それ自体が「普通人の思想」として定式化すれば、別の権威になりかねないということ。別な言い方をすれば、自分を馬鹿だと卑下することは間違っているとしても、自分を「普通」だと開き直ることも同じように間違っている。 例えば育児について。子どもを育てながら不安やわからないことがあるとき、多くの人は専門家が書いた本を頼りにする。その癖、自分で子どもを育てたことがない若い専門家の意見にはどこか頼りないものを感じる。そうして育児雑誌の体験談に駆り立てられる。そこでは自分の子どもを育てた経験しかない人が、「先輩ママ」と自称して堂々と説教している。しかも最後は「人それぞれだから、自分でやってみるしかない」と突き放す。普通であることに開き直ると体験主義になり、結局、別の権威主義か、相対主義に陥る。 もう一歩考えを進める。規範にしろ、思想にしろ、信仰にしろ、ある種の内的原理を見出した人には、周囲の人は同じ原理を持つ人とそうでない人に分けられて見える。言葉を換えれば、世の中がバカとそうでない人に見えてくる。「普通」を標榜する人が専門化をバカとみなすのも、同じ仕組み。「普通」という自分が生きる規範が見出したと思うからこそ、それを共有しない人がバカに見える。 当然のこととはいえ、忘れてはならないのは、それを口にした途端、口にせずとも思った途端に、自分もバカの一部になる、ということ。悟ったと思っているうちは、まだ何も悟っていない。 専門知識は絶対ではない。同時に自分を含めた個別の体験も普遍的ではない。ただし、自分は自分を生きるしかないのだから、自分は自分に対してつねに専門家で、同時に自分は自分に対してつねに普通。何事につけても、究める人は自分の外に専門を見つけない。どんなに特殊な事柄でも自分にとっては普通と思うから、無心に、また無欲に究めていく。 専門知識は悟ったつもりの独断を冷静に見据えさせてくれる。つまり、自分が普通でありつづけるためにのみ役に立つ。カッコ付や大文字で「普通」になってしまわないために、小文字で普通でありつづける必要がある。 さくいん:馬鹿 |
碧岡烏兎
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