If Nathan Were Here, written by Mary Bahr, illustrated by Karen A. Jerome, Eerdmans, 2000


今週は、半年振りにシリコン・バレーへ出張。いつもならフリーウェイ沿いのビジネスホテルに泊まる。今回は、すすめられて中心からは少し離れた街に泊まった。泊まったところは、マリリン・モンローとジョー・ディマジオが新婚旅行で訪れたという由緒正しい、というより少し古めかしいホテル。

「猫の街」は、東京でいえば成城学園や、田園調布のような閑静な高級住宅地。アンティーク・ショップや画廊、小奇麗な台所用品の店が並んでいる。IT業界の成功者たちも何人か住んでいるという。どこでもクルマで移動が標準のようなシリコン・バレーで、街中をぶらつくことができるのはめずらしい。

着いてすぐ、時差ぼけで眠くなりそうな身体を覚ましておくために街をひとまわり散歩した。夜には、街の酒場まで歩いてビールを飲んだ。皆歩いて帰れるのか、夜遅くまでにぎやか。帰国の朝には、役場前の公園で大きな杉の木にあたる朝日を眺めた。

食事は出張の楽しみの一つ。初日は目抜き通りのステーキ・ハウス。肉も時差ぼけ防止にいいらしい。到着直前までよく眠っていて、機内ではあまり食べていなかったので8オンスのフィレをたいらげてしまった


翌日は、インド系シリコン・バレー人のすすめるインド料理店。レストランは、前に立ちよったことがある書店のすぐ近く。この店は、ひとことで言えばspiritual系。洋の東西を問わず、宗教関係、心理学、精神医学の本のほか、ヒーリング系の音楽やまじないの道具やお札のようなものも売っている。

絵本の取り揃えも独特。子ども向けの聖書や、大型書店ではあまり見かけない本が並んでいる。この店で、“If Nathan Were Here”を立ち読みした。待ち合わせの時間は過ぎているけれど、気になって店をのぞいてみる。絵本の場所は覚えている。まっすぐ進むと、ずっと待っていたかのように、今も棚に置いてある。すぐとなりには、“Michael Rosen's SAD BOOK”

売れたあとに補充されたのかもしれない。でもカバーが少しよれているから、前と同じ本かもしれない。きっとそうに違いない。そういうことにして、急いで手に取る。

ネット書店では為替や送料を含んでも、定価より安く買えてしまう。これくらい魔法が感じられないと、店で買う意味がない。


“If Nathan Were Here”はgriefingいわゆる悲しみの作法についての絵本。もう一歩踏み込んで言えば、悲嘆の分かち合いについて書かれている。

物語の結末は、楽観的すぎるように見えるかもしれない。悲しみを分かち合うことを、グリーフィングの終わりや目的ととらえれば、そういう見方になるかもしれない。しかし、分かち合うことは、きっと悲しみの終わりではなく、より深い悲しみのはじまり。

名前の与えられていない主人公が、Nathanの姉、Mary Kateに対して、PotterさんやBrickley先生のように振舞えるようになるのは、やさしいことではない。自分の悲しみをぶちまけることもできないし、相手の悲しみばかり飲み込むこともできない。また、傷を舐めあうことも違う。分かち合うということは、いま生きている人とともに生きていくこと。

つまり、分かち合うことで、悲しみは消えてなくなるどころか、生きているかぎり続いていく。それに気づくことは、実は悲しいことではない。きっとその正反対。


本書の結末は、もう一つ、分かち合いを暗示している。それは死者との分かち合い。いなくなったあの人が、今、ここにいたら、どうするだろう。そう思いをめぐらせることは、死者の無念を思いやり、その遺志を受け継ぐこと。これは、死者を忘れてもできないし、悲しみに沈んでいてもできない。死者との分かち合いは、過去を見すえながら、未来に向かうこと、つまり過去相に生きること、ともいえる。

ふと立ち読みしただけで、でもずっと心の片隅で名前を覚えていた本に、同じ場所で再会できた。もの言わぬ本との、幸せなつきあい方。

書店ではポイントカードももらった。「旅行者だから、次にいつ来るかわからないよ」。そう言っても店員は笑いながら、「いつでもいいさ。次に来たときには、また寄ってくれ」。魔法をかけているは、この人かもしれない。

本に差し込まれた書店発行のしおりには、“KNOW THYSELF”と書いてある。絵本の語り手も自分自身。いい記念になった。This will be a good piece of souvenir.