第25話 インダストリアの最期


コナン、ダイス、ジムシーの三人は、毒蛾ギガントの翼のうえで戦っている。辛うじて生還したモンスリーとラナは、コナンを待たずにハイハーバーへと出航することを決意する。

この場面のラナは、健気というより、悲壮な決意を堅めているようにみえる。ラナは、強いところをみせているけれども、コナンはもう戻らないと内心思っているのかもしれない。

インダストリアの委員会の面々が、ラオ博士と無言の別れをすませ、下船したときのラナの台詞。「あの人たちの好きなようにさせてあげなさい」と諭され、はじめてラナは大好きなおじいさんに反論する。

私、もどって呼んでくる。コナンなら、きっとそうしたわ。

問題は、コナンが生きているかどうかではない。コナンがここにいたら、どうしたか。もう二十年以上前に読んだフランクル『夜と霧』に、似たようなことが書いてあった。別々の収容所に引き裂かれ、遠く離れてしまったとき、その人が生きているかどうかを思い悩むより、その人がそばにいたら、どうしていたか、と思うことが、心の平静をもたらす、と。

それは、その通りだろう。その通りだからこそ、もう心のなかでしか、そばにいられないという事実をつきつけられたときには、安否を案じていたときよりも深い闇に突き落とされてしまう。

あたたかい血が通う人間であれば、当然の反応。心のなかでそばにいることに再び幸福を感じるためには、長い時間をかけて、1ダースくらいの段階といくつもの心理的な危機を乗り越える必要があるに違いない


委員会の選んだ責任の取り方には、見るたびに違う考えをもつ。そうするよりほかないと思うこともあれば、彼らの選択は正しいと思うこともある。彼らには語り部となり、インダストリアの虚妄を伝え継いでいく使命があると思うこともある。

ラオ博士の心情もわからなくはないけれども、ラナの気持ちも否定できない。ほんとうにコナンがいたら、宮崎駿は彼に何と言わせていただろう。

埠頭を離れた船から海に飛び込み、彼らを迎えに行っただろうか。それとも、ラナやモンスリーのように、じっと甲板から岸壁で見送る人々を見つめかえしていただろうか。

この場面は、何度見ても気が重い。


コナンならどうしたか、それはわからない。でもコナンはきっと、おじいならどうしたか、そう考えるだろう。


さくいん:ヴィクトール・フランクル