硝子の林檎の樹の下で 烏兎の庭 第四部
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6.1.13

フランクル『夜と霧』への旅、河原理子、平凡社、2012

共に生き、共に苦しむ――私の「夜と霧」、霜山徳爾、河出書房新社、2005


『夜と霧』を最初に読んだのいつのことか。著者もその記憶から書きはじめている。濫読していた中学三年生の頃か。本はもともと家にあった。誰かが買ったのだろう。興味本位から写真のページを先に見た覚えがある。たぶん小学四年か五年の頃。そのとき、すでに『夜と霧』は家にあった。

ナチスの強制収容所といえば、『夜と霧』を読む前に横浜駅にある百貨店で『アンネ・フランク展』を見た。1978年のこと。とても混んでいて、階段に伸びた長い列で待っていた。だから『夜と霧』を読む前にホロコーストについてある程度の知識はもっていた。

アンネの隠れ家には、そのあと1989年の夏に行った


最初の読後感はどういうものだったか。はっきりした記憶はない。読み返していないのに、これまで『庭』のなかでフランクルに2度、言及している。そこに最初の読後感の痕跡をみることはできるだろう。

一度目は、『未来少年コナン』の感想文のなか。記憶をもとに次のように引用している。

遠く離れてしまったとき、その人が生きているかどうかを思い悩むよりも、そう思える人がいると思えることが、心の平静をもたらす

この考え方は、本書でも引かれているので、フランクルの思想の根幹にあると言ってもいいだろう。ただし、私はフランクルは書いてなかったことを逆接して追記している。

その通りだからこそ、もう心の中でしかそばにいられないという事実をつきつけられたときには、安否を案じていたときよりも深い闇に突き落とされてしまう。

フランクルに学びながらも、彼の考えのすべてを首肯できない。フランクルに対する私の姿勢は『庭』での最初の言及に端的に表われている。


二度目は、鷲田清一の『「待つ」ということ』の感想に続いて。「人生が私を待っている」という言葉。この考え方も本書で展開されている。その意味では、少なくとも読み方に間違いはなかったとは言えるだろう。

とはいえ、読み方に間違いはなくても、ここでも、彼の思想のすべてに共感できてはいない。フランクルに対する、言ってみれば“アンビバレントな”気持ちが私にはある。それは本書を読んでいる間にもあった。

河原は、『夜と霧』の最初の訳者である霜山徳爾の人柄や、『夜と霧』という作品との出会い、フランクルとの交流についても触れている。厳格でいて学問を「道」と考えるような人柄を訳者自身の著書からも感じた。学者としては霜山に「すごい人だな」という畏敬の念は感じながらも、自分とは歩いている道が違いすぎる、そんな気もした。


フランクルに対する共感と、反感とは言わないまでもその懐に飛び込むことができない軽い拒否感はどこから来るのだろう。本書に石原吉郎の名前を見つけたとき、その糸口を見つけた。

河原は、『夜と霧』が日本で広く受け入れられた背景として石原吉郎の「集団として告発しない」という感想をあげている。石原自身の言葉を見つけることはできていないが、彼がそう言っていたとしてもおかしいとは思わない。

私にはその先が気になる。フランクルにはもっとよく知られた「それでも人生にYesと言う」という言葉がある。石原吉郎ならば、「集団として告発しない」とは言ったかもしれない。しかし「それでも人生にYesと言う」とまで、石原は言っただろうか。そこまで、フランクルとの共感は続いていただろうか。私にはそうは思えない。

この、二人の思索の分岐点と思われるところに、フランクルに対する違和感と石原に対する共感の出発点があることを、本書を読み終えたあと、私は考えはじめた。


「集団として告発しない」。この言葉は、被害者の言葉としてはとても潔い。では、この言葉は、加害者の立場から言うことはできるだろうか。石原吉郎は、収容所体験を被害者という視点だけではとらえなかった。収容所においては、他人を押しのけてでも生き残りたい、そうしなければ生き残れない、という本能、いや、実は本能というより、きわめて人間的な欲望が渦巻く場所であることを、彼は見落とさず、むしろその点を直視した。

石原自身はおそらくその後も意識することはなかったが、「被害者でありつつ加害者でもある」という相反する心理的経験が、複雑性心的外傷、いわゆるトラウマのなかでもとくに治療しづらい状態を引き起こすことを、その概念を最初に提起したジュディス・ハーマンは指摘していた


「それでも人生にYesと言う」という言葉は、どんな辛い境遇を体験しても、大切な人を惨い姿で失っても、それでもなお人生には生きる意味があり、価値がある。くどくど解釈するまでもなく、そう訴えている。

一方、石原はフランクルと共有する「集団を告発しない」という地点からまったく違う方向へ歩みを進める。

   私が無限に関心をもつのは、加害と被害の流動のなかで、確固たる加害者を自己に発見して衝撃を受け、ただ一人集団を立ち去って行くその<うしろ姿>である。
   (「ペシミストの勇気について」『石原吉郎詩文集』講談社、2005)

この言葉は「それでも人生にYesと言う」道とは正反対の方向にあると私には思えてならない。

それでも人生にYesと言えない

これが、石原吉郎の思想ではなかったか。そこまで言わなかったとしても、「それでも人生にYesと言えるか?」という疑問形が石原の考え方ではなかっただろうか。戦争が終わり日常が戻っても、苦労を共にした仲間は帰らない。生き残るために自分が捨てた良心も戻らない。

それでも生きていかなければならない。「私が「ここに在る」ことにより罰せられているとしか思えない」という言葉も石原は残している。

あるいは、「Yesとは言えない」という断定でないとしても、「人生にYesと言えるのか」と、石原は反語として問い続けていたように思う。


石原吉郎は抑留された外国で亡くなった仲間を思いやっていた。生き残ってしまった自分が、どう彼らの遺志を継ぐのか、そもそもそんなことができるのか、石原は問い続けた。私が石原の立場にいたら「人生にYes」とは言わないだろうと思うのは、こういう推測による。

生きて祖国に帰れなかった仲間と、もし再会することがあったとしたら、「『人生にYes』と思って戦後を生き抜いたよ」「生きている、そのことだけで大きな意味があるよ」。そんな言葉をかけられるだろうか。

戦友達は仲間が一人でも生き延びてくれたことを喜ぶかもしれない。同時に、彼らは生き残れなかった無念と生き残ることができた者への激しい嫉妬をもつのではないだろうか。

だから、嘘でも、演技でも、「人生にYesなんて言えない」、もしくは「生き残たっていいことはなかったよ」と言ってやりたくなるのではないか。


実際に、そう言った人がいる。江分利満氏こと、山口瞳

山口は、空襲で亡くなった友人に向けて書いている。

「なんだか申し訳ないな、俺みたいな役立たずが残っちまって」と、私は思う。「しかしね、生きるってことはそんなに面白いことじゃなかったよ。アイルトン・セナだって走るのは厭だって言ってたそうだぜ」
   私は自分でも信じられないくらいの幸運に恵まれた男であるが、振り返ると苦しいこと辛いことのほうが多かった。A君は仕方がなかったんだ。だけど、六十歳前後になっているはずのA君と筍で一杯やりたかったなとは思う。生きる楽しみなんて、これくらいのもんだ。そう思うと口中の蘞辛っぽさは一層蘞辛っぽさを増してくる。(『江分利満氏の優雅なサヨナラ』「えがらっぽい話」

「人生にYes」という言葉は、いま、生きている人しか言うことはできない。亡くなった人々や去っていった者たちの無念を考えると、軽々しく言える言葉ではない。むしろ私は(私が推測している)石原や山口の心情に強い共感をもつ。


閑話休題。

フランクルを批判するつもりはないし、彼を広く日本で紹介した霜山の功績に文句をつけるつもりもない。ただ、フランクルの言葉を、彼らが言葉に出さずに秘めていた自己への厳しい眼差しを持たず、軽々しく「心を癒す名言」のように振りかざしたところで、思想にも信条にも、何にもならないということは書いておきたい。

似たような体験を持ち、一度は接点をもったフランクルと石原の思索は、なぜ分かれてしまうのか。そこには、「信仰」が関わっているかもしれない。

宗教について語る知識も、ましてほかの人の「信仰」について口を出す資格も私にはない。これ以上、この点については語らない。

それでも、「信仰」という大袈裟な言葉を使わないとしても、二人の間には、<「世界」や「この世」に対する基本的な信頼感>において違いがあったと指摘することもできるかもしれない。思想の違いは、どちらかが正しいとか間違っているということではない。それぞれが生まれ、育ち、生きて、育ててきた個性の違いにすぎない、ということ。

その点を、宗教や二人の「信仰」や「神の存在」に対する意識の違いで論じることも、もっと知識を広げ、思索を深めていけばできるのかもしれない。当面、いや、おそらくずっと、私にはできないだろう。


繰り返す。フランクルの思想が「それでも人生にYesと言う」とすれば、石原吉郎の思想は「それでも人生にYesと言えない」となる、私はそう考えている、そして、私はその点に共感しながら、その否定的な観想を乗り越えて「Yes」と言い切れない自分を不甲斐なく思う。

石原吉郎の言葉は、詩であれ随想であれ、すべて断言で終わる。もしかすると彼のなかでは疑問符が残っていたかもしれない。でも、書き残した言葉は、すっぱりと断ち切られている。

だから心情的には「Yesと言えるのか」という疑問や反語であっても、表現としては「Yesと言えない」となってしまう。

石原は、言葉になる直前の沈黙を大事にしていた。言葉とは、言葉にならないものを形にするために使うものだった。だから、疑問符や曖昧な文末は彼の表現にはありえなかった。それは、彼の思索に疑問符がなかったことを意味しない。

切り落とし、書き切らなければならない言葉の直前に、「Yes」とは言い切ることができない石原吉郎の問いがある。同時に、そこから石原吉郎の詩と思想ははじまる。

それは厭世的と片付けられるような単純なものではない。


フランクルについて書かれた本を読みながら、一言触れられていた石原吉郎の名前に躓き、ついにフランクルの思想はつかめないまま、私には疑問符が残っている。


1978年11月に横浜髙島屋で開催された「『アンネの日記』展の切符

「アンネの日記」展


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