土を掘る 烏兎の庭 第三部
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2.24.07

石原吉郎全集(Ⅰ(詩)Ⅱ(評論・随筆)Ⅲ(俳句・短歌・対談・書簡・補遺))、鮎川信夫・粕谷栄一編、花神社、1979


石原吉郎全集

荒川洋治に教えられ『石原吉郎詩文集』を読んだ。読んで興味をもったので、次に『全集』を借りてきた。ひととおり読み通してはみたものの、感想を文章に残す気にはなれないでいる。安易に言葉にしてしまうことが憚られる、余韻とも不安とも呼べるような湿った後味が今も残っている。

石原は、シベリアで言葉への信頼を失い、「失語症」と自ら呼んだ精神状態で戦後を生きはじめた。失われた言葉は、しかし、次第に詩の言葉として形をとりはじめ、やがて、それらは抑留体験を回想するいくつかのエッセイとして散文の形を得た。

そのあと、散文の言葉はまた詩の言葉に還っていった。詩の部の最後にある「盲導鈴」という詩は、まず散文で題材が書かれ、そのあとで詩になった。この過程は、周囲の回想や年譜を併せて読むと、言葉への信頼を得て生活が充実していったというよりも、言葉への信頼が再び揺らぎ、その結果、心身まで不安定になっていったように感じられてならない。

石原の後半生に起きた、言葉が再び散文から詩を経由して沈黙に戻った過程。これについて考える術を私は持っていない。それが、石原の作品すべてに対して何か書くことをためらわせている。

それでも、『全集』を手に取り、読み、その名前が、いつの間にかしっかりと心のなかに刻み込まれたことは書いておきたい。以下、作品を読んで考えたことというよりは、読んでいるあいだ、なぜか心に浮かんだことを書き残しておく。


石原吉郎の詩を読んでいるあいだ、なぜか別の詩人、八木重吉のことがずっと頭から離れなかった。

比べてみるとほど多くの詩人を知っているわけではない。それにしても石原と重吉では、むしろ対照的といっていい。

八木重吉は、いわゆる宗教詩人と呼ばれる一人。キリスト教信仰を主題にした作品は少なくない。石原も戦前に受洗していて、戦後にもキリスト教徒としての発言や作品もある。共通項ではあるけれども、その共通項は、それぞれのなかで正反対の符号をもっているようにも見える。

石原は、キリスト教に入信していることを明らかにする一方、教会や教義にも疑念を抱いていることを隠さなかった。そうした態度や発言は、謎めいた最期とともに、周囲の人々に穏やかでない波紋を残したらしい。論争とも諍いとも言えそうなやりとりが全集の付録に見える。

石原は、無批判で大仰な信仰詩に嫌悪すると対談で話し、重吉の名前をあげている。確かに八木重吉は一般的には信仰に生きた芸術家と見られている。信仰に疑念なく、信じる喜びを創作や闘病の原動力にしたとも思われている。

石原吉郎の時代、八木重吉はまず信仰に篤い詩人として発掘された。そして今でも、八木重吉はそのような詩人として紹介されることが少なくない。

借りるばかりで本をほとんど買わない私が、八木重吉の詩集だけは四冊持っている。『定本 八木重吉詩集』(吉野秀雄編、彌生書房、1958)、写真も豊富な『わがよろこびの頌歌はきえず』(いのちのことば社、1992)。そして、主要な作品を集めた『八木重吉詩集』(郷原宏編、旺文社文庫、1978)、それをハードカバーで再販した『八木重吉詩集』(郷原宏編、小沢書店、1997)、


小学三四年生のとき、国語科を専門にしていた担任教員に重吉を教えられた。最初は「雲」や「豚」のようなメルヘン的な作品を気に入り、次に宗教を前面に出した作品に興味を持った。八木重吉は、長いあいだ、私にとっても抒情詩人で宗教詩人だった。

四冊のなかでも、郷原宏の注や解説は、他の二冊と違って、重吉を信じる喜びだけを歌った詩人とは見ない。郷原の解説のおかげか、少しずつ重吉への見方は変わった。

この数年では、「ぐさり! と/やって みたし」(「人を 殺さば」)や「このちちを みよ/なきもせぬ/わらいも せぬ わ」(「哭くな 児よ」)のような言葉を探して、ときどき読み返すようになった。

要するに、八木重吉の作品を私は、溢れかえった信仰の喜びとしてではなく、「信」を求めて苦悩する、言ってみれば、実存的な詩として読むようになった。そして、石原吉郎の詩にもとても似た匂いを感じた。

割合を比べれば、確かに対照的かもしれない。八木重吉に苦悩する言葉は多くない。石原には、「自転車にのるクラリモンド」のような生きる喜びを軽やかに歌う詩を探すのはむずかしい。とはいえ、それはたんに量と割合の問題であり、彼らの詩に対する姿勢には近しいものがあったように感じられる。

共通する心情があるにもかかわらず、石原は、重吉を宗教詩人としてしかみなかった。時代なのか、紹介のせいなのか、それとも受け止める石原の問題だったのか。簡単に切り分けられる問題ではないけれど、不運なめぐり合わせであったことは間違いない。


石原の作品でもっとも知られているものは、詩よりエッセイ、なかでも「ペシミストの勇気について」(1970)だろう。

このエッセイのなかで、石原は、抑留時代に出会った一人の男について書いている。その男は、隷属した状態にある収容所でも、徹底して意志をもった態度を貫いた。そして、服従を迫り、あるいは懐柔を試みる看守に対して返答した。

もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。

この言葉は、隷属のなかでも生き残ろうとしてしまう本能とそれに対する理性的な自己嫌悪に苛まれていた石原には衝撃だったし、そこまで極限状態にはない読者にも十分に衝撃的ではある。

しかし、石原はのちに、この感想を覆す文章を書いている。

ジェノサイドの重罪で訴追されたアイヒマンの「一人の死は悲劇、多数の死は統計にすぎない」という言葉を、非人間的な存在の言葉ではなく、ごくふつうの人間の言葉として石原は引く。彼はそこに、皮肉としてではなく真理として死のあり方を見る。誰からも非人間的と思われるような罪人の言葉を、石原はあえて人間的な言葉として受け止めている。

   ジェノサイド(大量殺戮)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である。ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる。ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。(「確認されない死のなかで——強制収容所における一人の死」『日常への強制』『全集Ⅱ』)

石原は矛盾していないだろうか。もし、アイヒマンが人間であるのなら、あるペシミストが向き合った看守もまた人間ではないか。

ノワール、いわゆる暗黒小説について、要するに「どいつも、こいつもだ」という形容を聞いたことがある。

どれほど悪にとりつかれ、どれほど矛盾に満ちていても、どれもありのままの人間の姿の一つにすぎない。信じられないほど非人間的であること、それもまた人間的であることの証。そういえば、なだいなだに『人間、この非人間的なもの』という著書があった。


一つ、無関係な挿入をしておく。もし、神がいるとすれば、それは人間と向き合ってはいないだろう。人間とそれと向き合う神をも見ている、あるいは包んでいるものが、神と呼ばれるものだろう。

無理をして関連づければ、非人間的と思われるものと人間的と思われるものの双方を包むものが人間であり、人間と、自分と向き合う存在と人間が思い込んでいるものの両者、その空間のすべてを包むもの、それが神ではないか。


閑話休題。

石原の態度は矛盾しているか。論理的にのみみれば、矛盾しているのかもしれない。しかし、この矛盾は当然の矛盾ともいえる。石原は、一方で収容所の人間は知っていて他方、アイヒマンを個人的には知らないのだから。

知っている人間と知らない人間では、発した言葉の受け止め方は違って当然。

しかも、知っている人間の言葉が真理で、知らない人間の言葉はそうでないと簡単に言い切ることはできない。どちらの言葉も、人間の言葉なのだから。

「ペシミストの勇気について」に書かれていることは、その後に発表された文章や対談にも繰り返して登場する。


「ペシミストの勇気について」を読みながら、ペシミストという言葉で、私は石原とはまったく別の人物を思い浮かべていることに気づいた。その人物は、実在しない、ある小説の登場人物。

福永武彦『草の花』(1954)の作中人物、汐見茂思。書き手である「私」は、敗戦後のサナトリウムで汐見と出会う。汐見は、理由を語らないまま、見込みのない手術に命を預ける。彼の死後、厚いノートを託された「私」は、汐見の書き残した半生を読む。

この作品を、私は二冊持っている。一冊は、中学三年生のときに読んだ新潮文庫版(1956年初版、蔵書は1980年発行の43刷)。もう一冊は数年前に古書店で見つけた『決定版』(新潮社、1972)。

『決定版』には、文庫版にはない「『草の花』遠望——あとがきに代えて」が添えられている。この「あとがき」で福永武彦は、当初、汐見茂思の独白だった作品は思い通りに仕上がらなかったと明かしている。その後、「私」という語り手を設定することで、満足のいく作品が完成に漕ぎつけたという

その三年の間に、私は作品を遠望できる地点まで離れていて、謂わば汐見茂思を他人として見ることが出来るようになっていた。

作者自身の述懐を読んで、『草の花』を何度も読み返す理由が、ようやく少しわかった気がした。もし『草の花』が汐見茂思の手記だけであったなら、何度も読み返すことはなかった。

『草の花』を読むとき、私はいつも、汐見茂思でなく「私」になったつもりで読む。「私」はどんな気持ちで汐見が残したノートを読んでいるのか、想像しながら読む。


ペシミストは他人のこと、自分のことではない。自分自身をペシミストと思うのは危険な徴候。ペシミストは、自分とは違う人に映し出された自分でなければならない。

つまり、石原の場合でも、『草の花』でも、私自身の場合でも、ペシミストは一人称ではない。二人称でもない。自分とペシミストの関係は、いつも、「私とあなた」の関係からははみでている。それはいつも、まったくの他人、いわゆる三人称の存在として現われる。

汐見茂思はもうそこにはいないのに、いつまでも「私」のなかに、しかも彼が生きていたときには知ることのなかった彼の内面が、「私」のなかに染み込んでいく。

汐見の手記には、「私」の知らない汐見の内面が記されている。実は、「私」ではない汐見の内面を通じて、書き手、福永武彦の内面を映し出している。


言葉をかえれば、ペシミストとは、人の心に住まう者。心にペシミストを住まわせる者は自分自身がペシミストになることはない。なることができない。心のなかのペシミストは、自分自身がペシミストになることから守ってくれる。

ペシミストとは何か。私のとりあえずの定義では、生命、あるいは人生に対し自分とまったく違う見方をしている人、とりわけ、自分が生き残ることばかりに心を奪われているとき、石原吉郎の言葉を借りれば「生きのこる機会には敏速に反応する、いわゆる<収容所型>の体質」にあるときに、眼の前に、あるいは、実在しなくても、心のなかに、現れる。。

ペシミストはきわめて主観的な存在。ペシミストの存在に気づくことにより、「私」は生き残ろうとする傲慢さ狡猾さに気づかされる。同時にペシミストの存在が、自らこの場所から立ち去ることを拒ませる。


ここまで書いてみて、一つの疑問が残る。アイヒマンは石原吉郎にとってペシミストだったろうか。いや、その問いよりも、もっと切実な問題がある。詩人、石原吉郎は、私にとってペシミストだろうか。

収容所で出会った一人の人間、鹿野武一は、石原吉郎にとっては、知っている人間であり、またペシミストでもあった。だから石原は、彼の言葉と生き方を、忘れないようにして生きた。

少なくとも汐見茂思は、『草の花』をはじめて読んだときから今までずっと、私にとってペシミストであり続けている。

小説の登場人物は、知っている人間といえるものなのだろうか。では、小説の著者はどうだろう。小説ではない、エッセイのような著作を通して知った人は、知っている人間と言えるだろうか。

その問いに、今すぐ答える必要はないかもしれない。汐見茂思を知ったとき、私は二十年もつきあう間柄になるとは思ってもいなかった


さくいん:石原吉郎



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