吉田満著作集(上下)、文芸春秋、1986

散華の世代からの問い 元学徒兵 吉田満の生と死(1980)、NHK、吉田直哉編、ポニー・キャニオン、1990

「戦後」が失ったもの、戦争とは何だろうか 鶴見俊輔座談、晶文社、1996


2月20日付日経新聞書評で、千早耿一郎『大和の最期 それから』(講談社、2005)の書評を読んだ。少年向けの『戦艦大和のさいご』は確か家の本棚にあったけれども、吉田満の名前は記憶になかった。

『大和ノ最期』を上梓してからも、文筆家ではなく日銀職員という一経済人でありつづけたこと、戦後にキリスト教徒になったこと、高度成長期を通じて戦中派の思いを亡くなるまで語り続けたことなど、書評で知った吉田の境遇に興味をもち、『大和ノ最期』から読んでみることにした。

図書館で著者名から検索してみると上下二冊の著作集のほか、NHKの特集番組のビデオがあり、一緒に借りてきた。二冊を交互にめくっているうちに『大和ノ最期』の収められた上巻より、そのあとに書かれた批評や随想が収められた下巻に、いつの間にか引き込まれていた。


『大和ノ最期』は、強烈な印象を残す作品であることは間違いない。若い兵士の切迫した心理や壮絶な海戦の様子が、読み慣れない文語体のおかげで熟読を強いるので、切実に伝わってくる。とはいえ、『大和ノ最期』は吉田にとって出発点でしかなく、到達点ではなかった。

『大和ノ最期』は、はじめは米国を明瞭に敵と表現していることからGHQにより出版不許可となり、発表後も、左派からは戦争を賛美していると非難され、右派からは敗北主義とみなされ、なかなか正しい評価を得られずにいた。彼の真意は沖縄への特攻を挑んだ天一号作戦や、まして太平洋戦争全体や戦争一般へ評価を下すことではなく、自分たち学徒兵の戦場での心理と行動を冷静に思い出し、記録することにあった。そうした精神的な作業をしなければ、戦後ははじまらないと吉田は考えていた。

その執筆意図を見抜いていたのは、出版を不許可にする一方で戦場心理の優れた記録として軍の機関紙に掲載した米軍と、『大和ノ最期』の出版を最初に企画した当時創元社に身を置いていた小林秀雄だった。

   僕は、終戦間もなく、或る座談会で、僕は馬鹿だから反省なんぞしない、利口な奴は勝手にたんと反省すればいヽだらう、と放言した。今でも同じ放言をする用意はある。事態は一向変わらぬからである。
   反省とか清算とかいふ名の下に、自分の過去を他人事のように語る風潮はいよいよ盛んだからである。そんなおしやべりは、本当の反省とは関係がない。過去の玩弄である。これは敗戦そのものより悪い。個人の生命が持続してゐる様に、文化といふ有機体の発展にも不連続といふものはない。
   自分の過去を正直に語る為には、昨日も今日も掛けがへなく自分といふ一つの命が生きてゐることに就いての深い内的感覚を要する。従つて、正直な経験談の出来ぬ人には、文化の批評も不可能である。
(「正直な戦争経験談」(『戦艦大和ノ最期』初版跋文)『著作集上巻』「付録」、『小林秀雄全集 第九巻』、新潮社、2001))

『大和ノ最期』は冷静な記録、小林の言葉を借りれば、「正直な経験談」でしかない。それを書き上げた吉田は、文化の批評家ではなく、ふつうの職業人として戦後の自分を生きはじめる。そのために、いったん書き上げた過去を彼はすべて否定しなければならなかった。特攻作戦から生き残ったという大きな矛盾は彼に自己否定を迫った。


それから何度も、彼は同じことについて書いている。なぜ若者は死ななければならなかったのか。彼らが遺したものはいったい何か。生き残った者に託されたものは何か。そもそも、なぜ、彼らが死んで、自分が生き残っているのか、そこにどんな意味があるのだろうか。

上下二冊に収められた作品の数は、個人全集としては必ずしも多くはない。しかし、深い思索の上に書かれた硬質で密度の高い文章が続く。

    体験は、だが結局それだけのものでしかない。一つの体験が真に血肉となるには、さらにそれが他の体験によって超えられることを要する。終戦が来て、平和が訪れ、身辺が平静にかえるに従い、私は自分に欠けていたものを、漠然と感じはじめていた。死に望んでの、強靭な勇気とか、透徹した死生観とかが、欠けていたのではない。
    静かに緊張した、謙虚に充実した、日常生活が欠けていたのである。死と面接したとき、そこにあるのは死の困難ではなくて、ささやかな自己である。そこで役立つのは、死相にこわばった自己ではなくて、柔軟ななだらかな自分である。ただあるがままの、平凡な自分である。
    私は、あの器械的な動物的な死が奪われて、なごやかな、明々白々とした日常しか残されていないことに、愕然とした。すべてが、克明に、淡々といとなまれてゆく、つねに自己をみつめ、一日の生に悔いなきを期し、一瞬一瞬に自分を超えること、それのみが、死に備える途と思われた。したがって、生を全うする途でもあった。(「死と信仰」『下巻』)

過去に向かって生きる。吉田の生きる態度を一言でいえば、そうなる。それは過去にこだわることではない。過去をみすえて現在を生きること。時間は、前に向かってしか進まない。過去の出来事を真剣に受け止め、心の礎とすることが、過去に向かって生きるということ。過去相に生きる、と言いかえてもいいだろう。


過去相に生きるということは、楽器の弦に似ている。片方の端を押さえながら、もう片方を手前まで強く弦を張る。きちんと押さえられていないと、ずるずると現在へ近づいてきたり、突き刺しておいたつもりのピンがいきなり飛んできたりする。しっかりと張られた弦からは、太く重い音がする。

過去に一方の軸を置き、弦を現在までまっすぐに引く。過去をみすえながら、現在の状況を顧みる。押さえつけられた過去もじっとしたままではない。過去は、何度も解釈しなおされる。例えば、『大和ノ最期』に寄せられた批判や賛同について、客観的な分析をしたうえで、あらためて自分の問題として受け止めなおすようなことを吉田はしている。

なかでも「戦後日本に欠落したもの」と、それに続く鶴見俊輔との対談、さらに鶴見の批判に応えながら自分の考えを深めていく「死者の身代わりの世代」は、吉田が真摯な思索者であったことを十二分に感じさせて余りある。

しかし、この、真摯であること、生真面目であることが、吉田の、あるいは彼が代弁をつづけた戦中派の弱さでもあるように私には思われる。鶴見は、戦中派は個人の政治的アイデンティティーの問題を国家へ横すべりで同一化させたこと、それゆえ、国家の一部分である現政府、現政策に対する批判能力を失ったことを指摘した。

言葉をかえれば、真面目であるがゆえに、体制に従順で、目前の課題に――それが自らの命を賭す特攻であっても――過剰なまでに忠実だった。


戦争中、健康な若者は応召され、大学生であれば士官候補にもなることができた。言ってみれば「祖国のために死ぬ権利」を充分に行使できる立場にあった。だから真面目な人ほどその権利を行使し、その義務を真当に果たそうとした。「横すべり」の一因はエリート意識にある。

これまで読んできた軍隊経験の文章と比べると『大和ノ最期』はむしろ異色。胡桃沢耕史水木しげる山口瞳といった人たちの描いた戦中派は、吉田ほど生真面目ではないし、祖国のことばかり考えているわけでもない。

当時は戦争に積極的に反対することも消極的にサボることもできる時勢でなかったと吉田は戦後からの気安い批判に反論する。それは、その通りだろう。その一方で、自分なりに祖国に献身しているつもりでも、当局からは役立ずとみなされた人々が存在したことも確かだろう。

役に立てないどころか、病人や老人、障害者に女性、そして子ども、庇護が必要な人々は戦局が悪くなるにつれ、とくに戦場となった沖縄では守られる国民とはいえないような仕打ちを受けた。


ある人が真面目に努力すればするほど、そして成果をあげればあげるほど、それができない人は虐げられるという皮肉。こういう傾向は、国内の価値や政策、情報が一元化されやすい現代の国民国家の総力戦では、ブレーキがかかりにくい。

生き残った者と吉田が自省するとき、生き残れなかった者とは誰のことを指すのだろうか。「祖国のために死ぬ権利」を実際に行使できた戦友か。それとも、戦友にすらなれなかった人たちをも含んでいるのだろうか。

   辛くして我が生き得しは彼等より
   狡猾なりし故にあらじか

この岡野弘彦の短歌にこめられた苦い思いを、吉田はずっと胸に秘めていたのではないか。没後、吉田を特集するドキュメンタリー番組を制作した吉田直哉が著作集下巻附録の「生きている問いかけ」で回想している。

この痛切な自問を欺瞞的な感傷で終わらせないためには、生き残った者とは弱者を踏み台にした強者であるという自覚がなければならない


私は、このことについて、吉田満を批判しようとは思っていない。この問題は、別な意味で生き残りである私自身に向けられる。戦中派が戦争の生き残りであるように、私は戦後社会の生き残りの一人

私が生き抜いてきた学校社会や、今も身を置いている企業社会にも、精神的な土壌としては、戦争中に似たものがあるように思う。課題に対し努力することに過剰な価値がおかれ、努力しない者、できない者はダメ人間で、抵抗する者は「逃げている」と非難される。メディアも教育も情勢を追認し、補強する。

受験戦争管理教育会社主義過剰労働。それをとりまく希薄な人間関係。こうしたとげとげしい、ある種の戦場ともいえるような戦後社会の病理のなかで、ある者は抵抗して敗れ、ある者は脱落し、ある者はそこから無言で立ち去った

ガラスのような彼らの心情を戦に散った兵士たちの強靭な精神と比べることは、英霊に対する冒涜かもしれない。そうであるならなおさら、私は彼らの頼りない立場について思いを寄せないではいられない。

彼らは何かを守るのでもなく、何かに戦ったのでもない、ただひとりくずれさっていったにすぎない。そう片付けることはたやすい。それではそんなもっとも弱い者を見過ごし、見捨てて生き延びてきた私は何者だろう。狡猾でなくていったい何だろう。彼らをただの敗北者として忘れ去ることが、あるいは過去の思い出としてだけ記憶にとどめておくことが、私にどうしてできるだろうか。

彼らのことを忘れることは私にはできない。では、忘れずにいてどうすればいいのか。吉田満が散華の世代の声に応えようとしたように、私は彼らの遺した問いに応えたい。彼らは何を遺し、生き残った私に何を託しているのか。


戦後すぐにそのように自問した吉田と違い、私はずっとこの問題を避けてきた。私に吉田を批判する資格はない。生き残るだけでなく、忘れようとしただけでも私は狡猾の謗りを免れない。私は、しばらく煩悶している。

書評を閉じるためにもう一度、吉田満の思想について。祖国愛という抽象的で不定形な感情を政策という大きな枠組みではなく、個人の日常の水準において、どのような具体的な実践に落とし込むか。その間に方向性の相違、強度の落差が生じる困難。吉田がこのような問題に直面したのは、祖国愛と国家のあいだだけではなかった。

そして私の危機もここにある。私はこのように信ずる――ということ以外に信仰の姿はない。このように信ずることも出来、またあのように信ずることもできるーーこれは断じて信仰ではない。私は文字通り暗きにさ迷うている。カトリシズムの堅固な克己と努力の信仰もすて難い。プロテスタンティズムの真摯な捨て身な信仰も本物だと思う。いかなる相違も表裏として見れば一体に過ぎない。例えば形式とか戒律とかいうが、真の信仰があれば人は形式には堕さない。逆に信仰がなければ自由な発意もマンネリズムに陥る。形式は情意に逆らうことも甚だしい。そして常に空言化の危険を伴う。しかしもしそこに信仰が保たれればそれは弱い人間性にとって恰好の器であるかも知れぬーーだが、このような観察は断じて信仰の立場ではない。(「底深きもの」『下巻』)

抽象的な信じるという気持ちだけでは信仰とはいえない。信仰は、必ず制度を伴う。ところがその制度は、個々人の自由な信仰を規制する恐れをもっている。

この問題は、吉田が苦しんだカトリックプロテスタントという、ある宗教の宗派間にのみ存在する問題ではない。個人の心情と集団の制度のあいだの緊張は、国家、企業、家庭、地域など、人々が暮らす場所のどこにでもあり、また人々が真摯であるほど、やっかいなことに問題は深刻になる。

では、適当に不真面目であればいいのか。真面目でありすぎることは、確かに問題かもしれないとしても、ほどほどの不真面目はいったいどの程度のものか、定義できるものだろうか。


鶴見俊輔は、吉田との対談のあとで次のように書き残している。

それぞれの人が、自分のくらしのスタイルを少しでもかえて、そうしてつくったわずかのズレから、自分ならびに自分たちの未来をのぞくということが、誰にでもできる最小のことであり、根本的なことだと思います。それぞれの人というと道徳めいていやなので、むしろそういう風が、人から人へと吹きとおるようでありたいと思っています。状況にせまられてそういう風がおこりそしてつたわりやすくなると思っています。

鶴見は、「道徳めいていやなので」と断り、真面目になりすぎないように注意しながら、ほどほどの不真面目を定義しようとしているようにみえる。「風」という言葉は快く響くし、鶴見の伝えたいところもわからなくはないけれども、これで充分とも言えない。

私なら、どう表現するか、表現したことを「日常の思想」としてどう実践するか。問題はそこにあり、いつまでも煩悶している場合ではないとわかってはいるけれども……。

まだ草の上に腰を下ろしたまま