草の葉/言の葉——エピグラフにかえて


「草の上に腰を下ろして」という副題を掲げて、ふたたび文章を書きはじめることにした

「草の上に腰を下ろして」という副題を思いつくきっかけになった言葉をエピグラフとして残しておくことにする。

このエピグラフは第二部全体のエピグラフであり、同時に最初に書いた文章、書評「裏庭」のエピグラフでもある。つまり、書評「裏庭」は第二部のはしがきでもある。

私の文章は、このような仕組みになっているものが少なくない。つまり、私の言葉は、私が経験した言葉の切り貼りに過ぎないのかもしれない。


わたしの まちがいだった
わたしのまちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる

不来方の
お城のあとの草に臥て
空に吸はれし
十五のこころ

つらいくさとりがおわり
ずきんとするこしをあげて
みれば
空に七色のすべり台があった

But I know a place where we can go
That's still untouched by men
We'll sit and watch the clouds roll by
And the tall grass wave in the wind
You can lay your head back on the ground
And let your hair fall all around me
Offer up your best defense
But this is the end
This is the end of the innocence

甘い風に誘われて 辿りついた あの日の森
通り雨に蘇る あなたの姿さがす 夢の中も…

あかいともしびが山なみのあひだにかくれてゆくと、私は後のさみしさに又やはらかい草をむしつた。

    ヴィクトル・ユゴーは言っている。
    草は生い茂り、子供らは死なねばならぬ。
    私は言おう、芸術には残酷な法則があって、それは、人びとが死んでこそ、また私たち自身がありとあらゆる苦悩をなめつくして死んでこそ、草が生い茂るということである。それは忘却の草ではなく、永遠の生命の草、豊饒な嗜好品がうっそうと茂る草だ。その草の上に後の世代の人びとがやって来て、地中に眠る人たちのことなど気にもかけず、陽気に彼らの「草上の食事」を楽しむことだろう。

酒のもう、天日はわれらを滅ぼす、
君やわれの魂を奪う。
草の上に坐って耀よう酒をのもう、
どうせになったらあまたの草が生える!

繰り返すあやまちの そのたび ひとは
ただ青い空の 青さを知る

砂浜に腰を下ろして 静かに瞳を閉じるの
波のハープだけ髪をふるわせ 透明になった心が流れ出すの

あなたを思うのは 日暮れときから
あたりが 夕闇に 沈むときまで

Some people hope for a miracle cure
Some people just accept the world as it is
But I'm not willing to lay down and die
Because I'm an innocent man

あの人が残していったすべてを
私はしまっておくわ
どんなに離れても
いつか恋をしても
ときどき抱きしめて泣くでしょう