小林秀雄全集(2)(第九巻、第十巻、第十二巻)、小林秀雄、新潮社、2001小林秀雄の仕事にはいくつかの分野がある。文芸評論、美術や音楽の評論、そして古典文化の評論、そして社会や政治、文明についての批評と、批評という行為、批評精神についての考察。「文化について」のなかで、彼は自分の考える批評精神を手際よくまとめている。 与えられた対象を、批評精神は、先ず破壊する事から始める。よろしい、対象は消えた。しかし自分は何かの立場に立って対象を破壊したに過ぎなかったのではあるまいか、と批評して見給え。今度はその立場を破壊したくなるだろう。立場が消える。かようにして批評精神の赴くところ、消えないものはないと悟るだろう。最後には、諸君の最後の拠りどころ、諸君自身さえ、諸君の強い批評精神は消して了うでしょう。そういうところまで来て、批評の危険を経験するのです。 対象を疑う。疑い続けて、最後には疑う自分自身をも疑うことが批評。この点で批評とは、「我考えるゆえに我存在する」、その我すら疑うのだから、自分の存在を狂気にさらす危険な行為。小林は「破壊する」と過激な言葉を使っているが、意味から考えれば、より現代的な言葉では「相対化する」とも置き換えられる。昭和初期に書かれた「文芸批評の行方」でも同じことが書かれていることから、戦前、戦中、戦後を貫いた小林の基本思想と考えても差し支えないだろう。 この批評精神に基づいて小林のほかの仕事をみてみる。ドストエフスキーやゴッホ、モーツァルトについて語るとき、彼は自分自身を「破壊」しているだろうか。西行や実朝、本居宣長や荻生徂徠について語るとき、どこまで自分を疑っているだろうか。 批評とは、「与えられたものを享受する代わりに、これを分析し解体し、様々に解釈しなければ気のすまぬ」ものである。それでは、小林が古典文化を語るときには、「あるがままのものを、そのまま喜んで受け容れる」「尋常な精神」によりかかっていないと言い切れるだろうか。 まして彼が一部の作品や芸術家だけを「一流」と一刀両断にするとき、彼は受け入れるどころか、対象のなかへ埋没してしまってはいないだろうか。 対象が抱く世界へ無批判に埋没するならば、対象がどれほど高尚な古典や芸術であろうと、その精神構造はアニメに心を奪われたオタクと変わるところはない。批評精神は反政治的であり政治的無関心とは本来異なることは小林自身が指摘しているが、彼を文学や芸術の世界へ向かわせたのは、戦中の失望感に端を発する政治嫌いにであったように思えてならない。 小林秀雄には文学、芸術、古典の世界の素晴らしさを伝える評論的作品と文明と自己を解体する批評精神を論述した作品の二つの世界がある。そして後者は前者の存在を否定するものであるのに、結局、前者を否定することなく、彼は二つの世界を生きた。ここに小林秀雄の致命的な矛盾がある。 冒頭、小林の仕事を注意深く、批評と評論に分けた。評論は学問と同じように「教養の運用や整理」である。それはそれで価値ある仕事ではある。ましてまだ本物の芸術作品が日本国に知られていなかった頃、また古典文化が軍国主義や経済成長の陰に隠れたとき、小林にはそれらの価値を大衆に紹介する使命を自覚していた。戦前から戦後のかなり後まで、多くの人が芸術や文学の世界の扉を小林の案内で押し開いた。 坂口安吾は、小林はモーツァルトに文学を見てもジャズに同じものを見出さないと批判する。実際、小林は大衆文化についてはほとんど言及しない。書いてもいないから、軽視や蔑視をしているとも感じられない。ただ彼自身は、作品の上では意識的に一流と古典だけを取り上げていたようにみえる。 その理由は、彼が終生失わなかった「美の伝道者」としての使命感にあると私は考える。同時にこの使命感が、小林秀雄の抱える矛盾の根源とも思われる。強い使命感はどこから来るのか。それは「日本人」としての自覚にほかならない。 すべてを疑えと主張する「文化について」のなかですら、彼は文化を実体ある存在として疑わない。 ある国の文化という以上必ず伝統的個性をもつものならば、国際文化などというものはあり得ない筈である。インターナショナルなものは、文化というより寧ろ技術と呼ぶべきありましょう。 小林は間違っている。「ある国の文化」などという実体はどこにも存在しない。存在するのは国際文化のほう。しかも、国際文化という文化があるのではない。実体のない空虚が国際文化。 つまり、「ないこと」があるにすぎない。存在するのは、複雑に絡み合ったクレオールだけである。フランス文化もなければ、中国文化もない。そうしたものは政府や識者が勝手に自分の考える要素をそう呼んでいるにすぎない。疑えば、そう疑えるはずだ、いや批評精神は、そう疑わなければならない。 さらに問いただせば、小林は「技術」と「伝統的個性」に対立させているが、正しい設定とは思われない。伝統的個性とは、感性の突然変異などではなく、はてしない労苦と絶え間ない技術の研鑽の累積によって、はじめて形成されるものではないだろうか。機織や刺繍、歌舞伎の仕草、クラシック音楽の旋律、何をとっても文化と呼ばれるものは発起者の努力と技術のうえに、継承者たちの努力と技術が積み重ねられて初めて伝統となる。 小林が批判する「技術」とは、伝統的個性、たとえば「日本文化」や「フランス文化」といったものが仮に存在したとして、二つを単純に足し算するような愚策のことだろう。具体的には言葉や、商品、表面的な生活習慣だけを輸入するようなことを意味していると思われる。そんなことをしたところで新しい文化は生れない。それはわかる。 では、日本文化とフランス文化をすりあわせていく不断の努力とあくなき技術の追求は新たな日仏文化を生まないのだろうか。小林は答えないが、何よりも彼の「ランボオ詩集」こそ、「フランス文化」と「日本文化」を橋渡しする技術と努力が結晶した「国際文化」ではなかったのか。 同じ時期に書かれた「私の人生観」を読むと、彼が日本文化の「伝統的個性」を最重要視していることがよくわかる。 丁度雑沓する群衆の中でふと孤独を感ずるように、現代の環境のあわただしさの中で、ふと我に還るといった様な時に、私はよく、成る程と合点するのです。まるで遠い過去から通信を受けた様に感じます。決して私の趣味などではない。私はそうは思わぬ。正直に生きている日本人には、みんな経験がある筈だと思っています。人間は伝統から離れて決して生きることは出来ぬものだからであります。ただ何故私達は、生きる為に、そんな奇妙な具合に伝統とめぐり会わねばならぬか、それだけが問題だ。これはたしかに、日本独特の悲劇であって、かような悲劇を見て見ぬ振りをする文化主義者など、合理的道化に過ぎぬ。何故なら伝統のないところに文化はないからです。 自分さえも疑えと言いつつ、ついに小林は日本人としての自分を疑うことはなかった。残念ながら、ここで「他人には危険かも知れないが、自分自身には少しも危険ではない。そういう批評を安心してやっている(「文化について」)」のは他ならぬ大批評家、小林秀雄である。 ここに批評家としての小林秀雄の限界があると言わざるを得ない。あそこまで批評精神の本質を究めた人間でも、最後の一線を越えられなかったという感じがする。 小林秀雄は、しばしば日本の知識人の原型として福沢諭吉や夏目漱石を引用する。自分自身を西洋文化と伝統文化の融合に苦闘する「日本的知識人」の継承者と自覚した表れだろうが、自覚の強さがかえって彼に疑うことを止めさせてしまったと言えないだろうか。ここでは福沢や漱石について詳しく論じることはできない。ただ一言、私がみる限り、日本国の近代的な知識人の原点を福沢とするならば、福沢にも脱亜論に集約される「日本人」としての教養と、国家からはまったく独立した一般的な批評精神、いうなればコスモポリタンな精神とが並存していた。漱石についても同じことがいえる。 その痕跡は小林にも見出されるが、自覚的な水準では、西洋文化と伝統文化に苦闘する「日本人」という問題意識が常に優先されてきたことが、知識人とは何かという議論はさておき、日本国の知識人が今でも抱える重大な問題だと思う。明治維新以前に生れた福沢や漱石はともかく、生れたときから洋服を着て椅子で食事をしている世代が、今さら伝統文化との葛藤でもないだろう。自意識過剰は、まさに悪しき「伝統」というほかない。 すべてを疑うのならば、批評家は祖国さえ捨てる勇気を持ち、孤独なコスモポリタンとなることを決意しなければならない。島国根性というのは簡単だが、小林秀雄ほどの人物でも陥った罠は、恐ろしくなるほど根深い。 さくいん:小林秀雄 |
碧岡烏兎 |