漱石全集 第十六巻 評論ほか、夏目漱石、岩波書店、1995


夏目漱石の全集の一冊を借りてきた。理由は「文芸の哲学的基礎」を読むため。きっかけは「文芸の哲学的基礎」が英訳されたという新聞記事。漱石の作品は、小説をいくつかのほか『漱石文明論集』(三好行雄編、岩波文庫、1986)を前に読んだことがある。「文芸の哲学的基礎」は名前も知らなかった。


「文芸の哲学的基礎」は東京帝国大学を辞めて、朝日新聞に入社後の初仕事。直前には「入社の辞」という文章が書かれている。この二つの文章には小説家という職業に賭ける漱石の並々ならぬ意気込みが感じられる。

その意気込みは「筆一本で身を立てる」という経済的な意味での背水の陣とは違う。漱石は朝日入社にあたって、それまでに受けていた以上の厚遇を約束させた。しかも、書く量、内容に口を出さないという条件も呑ませた

生活に困らなくなれば、あとはいい作品を創るだけ。量ではなく質で勝負することが、「哲学的基礎」では宣言されている。

私はただ寝ているのではない、えらい事を考えようと思って寝ているのである。不幸にしてまだ考えつかないだけである。なかなかもって閑人ではない。諸君も閑人ではない。閑人と思うのは、思う方が閑人である、でなければ愚人である。文芸家は閑が必要かも知れませんが、閑人じゃありません。ひま人と云うのは世の中に貢献する事のできない人を云うのです。いかに生きてしかるべきかの解釈を与えて、平民に生存の意義を教える事のできない人を云うのです。こう云う人は肩で呼吸(いき)をして働いていたって閑人です。文芸家はいくら縁側に昼寝をしていたって閑人じゃない。

この考え方は、「道楽と職業」のなかでも展開されている。そこでは、自らの職業を「道楽的職業」と定義している。「道楽的職業」とは、好きなことを好きなようにすること。


私には、後半がとくに重要に思われる。つまり、好きなことをすることが目的ではなく、ましてそれを職業にするかどうかが問題なのではない。大切なことは好きなようにする、できる、ということ。

もう少し一般的な表現をすれば、自由とは、名詞的概念でも形容詞的概念でもなく、副詞的概念ということ。自由は手に入れるものではない。自由な身分にいるだけでは、自由ではない。自由に振舞うとき、はじめて人は自由になる

漱石や藤村など明治の文豪は、いかに文学を職業として成り立たせるか、ビジネス・モデルの開発という点でも開拓者だった。確かに今でも、脚光を浴びる芸術家は作品の中身だけではなく、発表の方法が斬新であることが少なくない。


法外な好条件で新聞社と専属契約した漱石にしても、借金をしてまで自費出版をした藤村にしても、目的は作家という職業に就くことではなかった。書きたいことを書きたいように書いて、発表したいように発表する、その手段を模索していたと私にはみえる。

印刷も検閲もなく文章を発表できるインターネット時代に彼らが生きていたら、どんな風に作品を発表しただろう。いや、この質問では意味がない。好きなように文章を発表できる時代に、生活の不安がとりあえずはなく、発表する手段をもち、発表する楽しみを覚えた人は、何をどのように書いて、発表していけばいいのか。私が考えなければならない問題は、そう問いなおされる。


『漱石全集 第十六巻』には、「文芸の哲学的基礎」「道楽と職業」のほか、これまでに読んだことのある有名な「現代日本の開化」や「私の個人主義」なども収録されている。ほかにも、「創作家の態度」「中身と形式」「素人と黒人」など、興味をひく題名の随想、批評が多い。とりわけ、「中身と形式」は、思想と表現を表裏一体、あるいは渾然一体としたスタイルという概念を考えようとしている私には示唆多い。

して見ると要するに形式は内容の為の形式であって、形式の為に内容が出来るのではないと云ふ訳になる、モウ一歩進めて云ひますと、内容が変われば外形と云ふものは自然の勢ひで変つて来なければならぬという理窟にもなる。

この引用文では、漱石は中身を形式に優先させているようにみえる。この文章では、表面的な形式だけ帳尻を合わせた学説などを批判の対象にしているので、このような考えが自然に引き出されるのだろう。しかし、一般的には中身と形式のどちらが先か、簡単な問題ではない。


どれほど深く感動しても、英語を知らなければ英語で表現することはできない。多くの人にとって言葉は自然に覚えてしまうものなので中身に先立つように思われやすいけれども、楽器演奏やスポーツなど身体の動きを覚える必要がある表現では、むしろ形式の習得が重視されることが多い。

もっとも、最近ではスポーツの世界でも、以前のように形式、つまり素振りや型を押し付けるのではなく、はじめになぜその型を身体で覚える必要があるのか、言葉でよく説明するほうが習熟は早いと言われているらしい。このことは、中身が形式に先行することを示しているし、また意志伝達の道具としての言葉の重要性が増していることも示している。さらに言えば、中身が熟するのを待つか、形式を先に伝達するかという点に教育の難しさがあることも示している。

他人に教えられる教育ではなく、自分で自分に教え、学んでいくような場合は、やはり中身が形式に優先するだろう。思想と表現とは一体とはいえ、つねに思想が一歩先を行く。新しい思想はそれまで入っていた殻を破り、新しい器を求める。これは、けっして逆ではない。思想が熟していないのに新しい形式で表現してみても、上滑りして思想はこぼれる。思想が熟すとき、自ずから新しい形式を生み出していく。スタイルの変貌は、このように言い換えることもできる。


ところで「文芸の哲学的基礎」をはじめとする評論作品は、講演をもとにしているけれども、漱石自身によってあとで大幅に加筆され、書きなおされている。こういうところにも新しい書き言葉による表現、すなわち散文芸術にかけた意気込みが感じられる。


さくいん:夏目漱石


碧岡烏兎