烏兎の庭 第一部
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8.10.02

丸山眞男をどう読むか、長谷川宏、講談社現代新書、2001

書評 丸山眞男『自己内対話』、哲学者の休日、長谷川宏、作品社、2001

丸山眞男をめぐって、日常の地平から、長谷川宏、作品社、2003


丸山眞男は、日本の戦後思想を考えるうえで避けて通ることができない巨人。とくに日本語で政治学や政治思想史を学ぶ人にとっては、その著書は一度は必ず手に取るもの。少なくとも、彼が活躍した六〇年代から彼が亡くなるまではそうだったに違いない。今はどうだかわからない。いずれにしても、80年代後半に政治学に触れた私にとって、丸山は憧れ以上の偶像であり、今もそれは変らない。

巨人であるがゆえ、高く評価する人だけではなく、反発する人も少なくない丸山を批判する人には彼が漂わせ ているエリート的な自己認識、いわゆる知識人と自己規定している点を標的にする人が多い。大学教員という研究者としてはありふれた形ではなく、在野の職業について哲学研究を続けている長谷川宏も、丸山をエリート主義として攻撃する一人。

以前『丸山眞男をどう読むか』を読んだとき、私が抱いていた偶像を破壊する鮮やかな論法に驚きもしたけれど、彼の批判に違和感も残った。新しい短文集で『どう読むか』以後の文章を読み、私の中に残っていた違和感の形が見えてきた。それは、長谷川に対する親近感の裏返しであることもわかってきた。

とはいえ、長谷川の筆致は、時に感情をあらわにするほど、いずれの文章でもかなり厳しい。「丸山を弁護したくなる人もあるかもしれない。が、それは贔屓の引き倒しというものだ。」とまで書いている。こうまで言われると同意もひとまず措いて、少し反発したくなる。丸山に対しては私なりに批判点もあるけれど、ここでは偶像を破壊してくれたお返しに、徹底的に丸山を擁護して、贔屓を引き倒してみようと思う。在野の哲学者という偶像を破壊しなければならない。


単刀直入に攻める。

長谷川の誤りは『どう読むか』の第一章の題名に端的に見てとれる。「知的社会と民衆の生活」。長谷川の丸山批判と、彼の思想に対する考え方は、徹頭徹尾、この二項対立の図式に収まり、抜け出ることがない。学者は大学という知的社会に留まり、民衆の生活を知らない。東大法学部教授、丸山眞男は、その典型。いみじくも社会思想、政治思想に関わる者は、民衆の生活に入っていくべきだ、というのが、長谷川の主張とみていいだろう。

知的社会とはいったい何か。そんなものは存在しない。大衆社会とは、社会の全体を大衆化させている社会のこと。知的社会と大衆社会が分離している社会は、階級社会。現代社会は、そういう意味での階級社会ではない。ありもしない知的社会を民衆の生活に対立させるから、前者から後者へ下りていく、という発想が生れてくる。民衆を、教えられるべき衆愚としか見ていない。

長谷川が主催する、「近所の主婦、会社員、教員、自営業者、大学生」などが集まる読書会では『日本の思想』(岩波新書、1961)は、すこぶる評判が悪かったという(『どう読むか』「第五章 思想の流儀について」)。察するに、参加者のなかに政治学の基本を勉強した人がいなかったのだろう。丸山の文章は読みにくい悪文ではないが、内容はけっしてやさしくない。要求する基礎知識も少なくない。

しかし、その知識を学んだことのある人ならば、たとえ現在は主婦や会社員や教員や自営業者であっても、わからないものではない。ある程度の知識のうえに、実社会での経験があった方が、丸山の洞察や議論はより深刻に響くかもしれない。長谷川は、主婦や会社員や教員や自営業者は『日本の思想』を読むために必要な基礎知識を持っているはずがないと、思ってはいないか。だから自分が知的社会から下りていって、そういう民衆にやさしい言葉で教えてやると思っていないか。


長谷川は、丸山のエリート主義を次のように批判する。

丸山眞男は、竹内好や長谷川如是閑や村上一郎にたいしては、隣の八っつあんやクマさんのようにむきあうことができた。が、名もない八っつあんや熊さんにたいしては、そのようにむきあうことがむずかしかったのではないか。名もない八っつあんや熊さんにたいしては同じ人類としてむきあうことがむずかしかったのではないか。

名もない八っつあんなどいない。八っつあんには八っつあんという名前がある。八っつあんは、政治学は何も知らないのかもしれない。そんな人に丸山の作品を読んで話しあおうというのは無茶な話。しかし、八っつあんは理系かもしれない。別の学問で博士号までもっているかもしれない。学校は出ていなくても、いまは専門的な職業についたり、人に教えたりしているかもしれない。

専門分野や関心のあることであれば、専門書も読みこなしているかもしれない。知識や資格がなくても、自分の職業と生活を自力で切り拓いているかもしれない。そういう発想は、おそらく長谷川にはない。なぜなら、彼にとって民衆とは、「名もない」八っつあんだから。


蛇足を承知で、もう一度、書いておく、

「名もない花」という花はない。ほとんどすべての草花に名前がついている。植物学者という専門家が分類し、名前をつけているから。野山を歩いて見かけた花の名前がわからないのは自分の無知のせい。

もし、本当に名前のない花を見つけたのなら、それは新種の花。急いで学会で報告したほうがいい。


丸山の著書は誰にでもわかるようには書いてない。政治学の知識と研究論文の理解力を要求する。とはいえ、そのことだけで彼がそうした知識と能力をもっていない人たちを見下していたとは言えない。むしろ、知識と能力のある人たちに向けて、それらを伸ばすことが彼の主眼であった。何しろ彼は東京大学法学部の教授なのだから。その東大での講義録についての長谷川の批判。

東大法学部でのこの講義は、知的エリートならざる生活大衆が容易に近づけるようには語られてはいないのだ。知的エリートが知的エリートにむかって、あるいは、知的エリートたらんとするものにむかって、語ったのが、『丸山眞男講義録』なのだ。(「丸山眞男をめぐって」)

これは批判になっていない。東大教授が、難関試験をくぐりぬけてきた優秀な学生達に高度に学問的な講義をして何の不思議があるだろう。東大法学部の卒業生といえば、多くは官僚になったり、大企業に入ったり、いずれは社会の中枢で責任ある立場につくような人たち。そういう人たちに対する講義が、カルチャー・スクールやニュース解説程度であっては困る。そのほうがよほど恐ろしい。

知的社会などない。誰でも限られた試験科目で点数さえとれば、その他の分野についてはどれほど知的でなくても、どれだけ大衆的であっても最高学府に入学できる。大衆社会がすべてを覆っているというのは、そういうこと。


長谷川も引用する、「大衆社会というのはひとくちに言えば、型なし社会ということでしょう」という丸山の発言は、こうした大衆社会の一面を突いている。知識人、専門家などという型はもはやない。誰もが大衆社会に呑み込まれている。だからこそアカデミズム、いや、ビジネスでもスポーツでも芸術でも、あらゆる分野に専門家が存在する価値は、その世界に独自の型を打ち立てることにある。ところが現実には、学者はテレビで専門分野以外まで解説し、評論家は生半可な知識を大学で教えている。型はないのに、肩書きばかりが横行する。

江戸には江戸の型があり、現代には現代の型がある、という長谷川の読み方は、この部分の理解としては完全な誤読というほかない。「引用するのが恥ずかしくなるほどの、乱暴な議論だ。」と言われて、恥ずかしくなるのは、名の知られたヘーゲル研究者がこの程度の読解力もないことを知らされる読者の方ではないか(『どう読むか』「第一章 知的社会と民衆の生活」)。

長谷川が考えるように、大学に象徴されるアカデミズムを知的社会であるとしても、現代社会では、知的エリートに生れたから知的社会に入るわけではない。誰でも資格を得れば、そこに入ることができる。少なくとも形式的にはそうなっている。だからこそ、出自や属性ではなく、そこのなかでの仕事が人間の価値を決める。まさに「すること」が「である」ことに優先する。


誤読といえば、長谷川は、政治の無価値性という点についても誤読している。丸山は、政治はそれ自体には価値はないが、芸術や学問には固有の価値がある、なければならない、と考えている。これに対し長谷川は、「芸術や学問と歴史的・社会的現実との関係を問うに当たっては」、芸術や学問に価値をおかない可能性を探るべきだと述べる(『どう読むか』「第五章 思想の流儀」)。

長谷川が歴史的・社会的現実と関係があると考えるものこそ、表面的には学問芸術にみえても、丸山のいう政治というものではないか。政治は、合意と決断の産物。歴史、社会、民意、為政者の意図、そうした諸要素の絡まりあいから導き出される。だからそこに普遍的な価値はない。結論はその都度その都度、状況に応じて変化する。

学問や芸術は、本来、妥協や意志とは異なる。妥協に抗して求める、あるいは意志に反しても求めてしまうものではないか。もちろん学問や芸術も、時代から離れてはありえない。だからこそ、それに抗う。時代の制約との孤独な戦いから真理と美が生れる。政治は、時代をつくるため、現実という制約のなかで決断を繰り返す。肯定的な言葉を使えば、政治とは「英知」の世界といえる。

丸山も「政治の世界」のなかで政治の無価値性と英知について書いている。


長谷川が陥っている知的社会対大衆社会という図式は、彼の丸山眞男に対する批判にとどまらない。彼自身の思想に対する態度にまで及んでいる。

丸山眞男を読みながら、この思想はもっと大衆化されていい、もっと大衆のものになるべきだ、と思いつつ、その一方、大衆的な思想ではない、大衆のなかに生きる思想ではない、という思いを打ち消しがたかった。

では、どうすれば大衆的な思想はうまれるのか、思想が大衆のなかで生きるのか。そう問われて、わたしに確たる成算などあるはずもないが、生活者大衆が知のことばに近づく道筋ではなく、知のことばが生活者大衆に近づく道筋こそがさぐられねばならないとは思う。『丸山眞男をどう読むか』を書きおえて、その道筋の探求を宿題としてかかえこむことになった。

確かに丸山の作品は娯楽作品ではない。とはいえ彼の思想は、エリートだけを対象にしているわけでもない。政治思想史や政治学を学ぼうという人なら誰でも丸山の作品から学ぶことができる。彼はつねに教員で、つねに学者。


試験にさえ合格すれば誰でも大学に入れる現代にあって、学生たちは必ずしも充分に知的ではない、大衆の一部かもしれない。そうした学生たちにむかって、あたかも知的社会や知識人が存在するかのように高度な議論を差し向ける点に、丸山の問題があるように私は思う。

ただしそれさえ、最高学府までも大衆化している時代に、恵まれた知的環境に生まれ育った最後の一人として、知的生活のあり方、まさに「学者の型」を身をもって見せつけたとも受けとれるし、事実そうだろう。そして、そのような真摯な学者の姿を目の当たりにして、学問に目覚めた若者もいたに違いない

丸山は、父親も高名なジャーナリスト。一高から東大という絵に描いたようなエリート人生を生きた。それでも、努力もせずに東大教授になったというわけではないだろう。さらに言えば、丸山のような環境で生まれ育った人でなくても、知的社会がまるで存在するかのように生きた人はいないわけではない。丸山の師である南原繁もその一人。

苦学して東大総長にまでなった南原は、民衆出身ではあっても民衆の言葉では語らなかった。生涯一哲学者として学問と哲学の理想から発言しつづけた。そういう学者は少なくない。大学教授だから、学者だからといって裕福で教育環境の恵まれた家庭に育ったとは限らない。

私の恩師は、農業高校から大学の夜間部へ入り、働きながら勉強を続け、大学教授になった。彼は政治学を学ぶ人に向けて研究を発表した。農業高校卒だからといって農業高校の生徒がわかるように書くわけではない。


南原や、私の恩師のような学者は、間違った場所にいたのか。そうではない。彼らこそ、生活大衆から知のことばに近づいた人たちではなかったか。長谷川が意図する、知のことばを大衆に近づけるなどという発想は、登山家に対して山を低くしてやろう、というようなものではないか。そんなことは誰にもできない。登山を楽しむ人も喜びはしないだろう。

長谷川の丸山に対する過剰に情緒的な反応は、彼が学生時代を送った時代が、丸山がもっとも知的エリートとして輝いていた時代と重なっているからだろう。どういう経緯かは知らないが、彼は大学には残らず、学習塾という自営業をしながら、哲学研究を続けている。その自負が、対照的な存在である丸山に対する、ほとんど敵意とも思える態度につながっているのだと思う。その心情は、わからなくはない。

率直にいって、長谷川が自分をどう思っているのか、疑問に思う。知的社会にいられたはずが、名もない民衆のなかで仕方なく生きていると思っているかぎり、民衆の思想など生み出せはしない。民衆の思想は、民衆からしか生れない。自らを民衆の一人であると自覚しない限り、彼の言葉はいつまでも、民衆に近づいたふりをして民衆の言葉ではなく、それでいて自分がいるはずだったと信じる幻の知的社会からもはみだしたままだろう。


長谷川が丸山に対し抱いている違和感は、心情としてわからないものではない。しかし、それは丸山をどれほど問い詰めても拭いきれないだろう。学者丸山ではなく、人間丸山眞男の実像を知れば、名前を知らない人間に彼は関心は薄かったかもしれないが、身のまわりの名のある八っつあんに対しては、一人の生活者としてふるまっていることを知るのではないだろうか。

私は、丸山の学問に対する姿勢、学問で成し遂げた成果、そこから得た名声、それらのすべてに憧れる。しかし憧れは、長谷川の憤懣が拭いきれないように、彼の作品を読み込むことだけでは満足できないだろう。


私が丸山に対して抱いている憧れは、おそらく症状は正反対でも長谷川のもつ違和感と同じところに根がある。長谷川がカントやヘーゲルに対して抱いているような気持ちに近いのではないだろうか。彼らこそ、民衆から離れて独自の知的世界で生涯を全とうした知的巨人といえる。もっとも同時代にあっては、偏屈な世捨て人と思われていたことは容易に想像できる。ともかく、遥か高い頂を目指して登って行った先人の一人であることは、ヘーゲルも丸山も変らない

障子に映る影に拳を出しても、障子が破れるだけ。ほんとうの敵もほんとうの偶像もそこにはいない。いるのは、鏡のなか。それさえも、鏡を殴ったところで鏡が壊れるだけ。鏡に接吻したところで、唇は冷たい。自分を殴ったり、自分を抱きしめたりするほど、難しいことはない。

そんな深遠な問題は措いても、敵はにいる、意外に身近なところにも。在野の研究者、市井のヘーゲルなどと手放しの賛辞を送る大学教員や出版業界人こそ、長谷川は用心したほうがいい。

そうしてすり寄る連中は、口で言うほど彼を評価してはいない。在野の研究者という彼の特異な立場は、せいぜい出版社の宣伝材料か、大学人の引き立て役にされるだけ。彼らにとって、肩書きのない者は、しょせんモグリにすぎないのだから。

そんな媚びながら侮るような奴らは無視して、学問でも生活でも、自分だけの型を磨いたほうがいい。


さくいん:丸山眞男



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