烏兎の庭 第一部
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11.28.02

堕落論(1957)、坂口安吾、角川文庫、1995


堕落論

『小林秀雄全集 第八巻』(新潮社、2002)に収められた対談「伝統と反逆」が印象に残ったので、小林を直接批判したとされる「教祖の文学」を含む評論集を読むことにした。

小林はモーツァルトに文学精神をみるが、ジャズに見出さない、というのが坂口から小林に対する批判の要諦。確かに坂口は、ジャズどころか、もっと世俗的、もっと下世話なものにまで文学精神、あるいは美を見出している。彼が美を感じるのは、刑務所の塀やドライアイス工場、見世物小屋のレビューなど。それから家庭生活とは相容れない孤独な無頼人生にも坂口は美をみる。

問題は、どこに美が見出すかということだけではなく、どこにないと思っているか、という点にもある。小林秀雄は、モーツァルトやゴッホなど古典や一流に美を見出している。そうかといって彼はそれ以外に美はないとも言っていない。古典がそのほかの美より優れているとも言っていない。

小林は、友人の素朴な俳句にこの上ない美を感じたとを告白してもいる(「対談・人間の建設」「青山君の句稿」『小林秀雄全集 第十三巻』)。ただ、小林は作品においては最大公約数の高い美を取り上げる。それは批評家という職業上の制約でもあり、責任でもあるようにみえる。別な言い方をすれば、クラシック音楽と見世物小屋の間に美における本質的な優劣はないことには、小林も同意するのではないか。あるのは、どちらにより多くの人が感動するかという確率の問題だけ。


坂口は、古典や一流に美があることを必ずしも否定はしないが、自分が求める美は、無頼に「こそ」あると思っているようにみえる。だから坂口は、自分が見出した美を掘り下げて、自分の世界を作り上げる。それが彼の作品世界。

坂口の危なっかしいところは、文学や美は、無頼に「こそ」あるというのではなく、しばしば無頼に「しか」ないと言っていること。確かに、それが坂口らしいところでもある。そうした表現は、言ってみれば坂口文学の棘のようなもの。生半可な気持ちで無頼に近づけば痛い目にあうぞという警告でもある。小林は後に坂口の作品に見られる「外見上の乱脈」を「この作家が必須としたアイロニィ」と呼んでいる(「坂口安吾全集」『小林秀雄全集 第十三巻』)。

結局、小林秀雄と坂口安吾の違いは批評家と作家の違いではないか。坂口は、小林を取り上げた一見評論に見える文章ですら、小林を批評するのではなく、自分の世界を創り出すことに専心している。対談で二人とも認め合っているように、「教祖の文学」も「堕落論」も評論ではない。坂口による短編小説。

「教祖の文学」についてさらに言えば、ここで非難の対象になっているのは、小林秀雄個人でもなければ、彼の批評作品でもない。文壇という業界によって「批評の神様」にまつりあげられた偶像としての小林秀雄であり、虚像の小林秀雄である。「誤解されて困るんだよな。」という対談での小林の言葉は、彼が坂口の逆説的な意図を了解している証左に思われる。


ここまで書いてきたことを、二人は承知しているとみていいだろう。そう思って対談を読み返すと、何となく微笑ましいものがある。いたずら河童が和尚さんにいたずらで禅問答を仕掛けたところ、思わぬ返答にいたずらを忘れて考えこまされているような風景が思い浮かぶ。

小林と坂口の対談「伝統と反逆」は古い小林の全集には収録されていなかったようだ。大本営発表を賞賛した「三つの放送」なども、今回の全集まで除外されていたらしい。確かにこれらの作品は、小林秀雄の本質からは外れているかもしれない。しかし、それだけに素顔が垣間見られるこれらの例外的な作品をきっかけに、小林秀雄に対する理解が深まることもあると思う。

小林秀雄を離れて、「堕落論」を読んでみる。堕ちるところまで堕ちてみろ、という坂口のアジテーションには共感するところがある。日本国は堕落しないところに本質的な堕落があると、つねづね私も思っているから。もっとも、坂口はこういう語呂合わせが大嫌いだろう。

言葉をかえれば、「たいへんなことにしちゃいけない」雰囲気がいたるところにはびこっている。事なかれ主義とは違う。問題が起こることを避けて、つねに秩序を優先しているわけではない。少し波風を立てて、お茶を濁してしまう。

以前、テレビで合衆国の郵便ストの様子を見てひどく驚いたことがある。郵便ポストからは投函された手紙があふれかえって路上にまで落ちている。郵便局員は来ない。通行人も拾わない。こうなった以上、どうにでもなれという空気。郵便事業は完全にマヒしているのだが、決着がつくまで葉書一枚路上から拾われることがない風景に眼をみはった。こういう光景は、日本国では見られまい。

敗戦後の天皇制、官公庁組織の温存から、安保闘争の二度にわたるなし崩し的な敗北、さらには目前の不良債権処理まで、ちょっと騒いでみただけで改革や闘争をしたつもりになり、本当の地獄はみたことがない。


バブル崩壊だの失われた十年だの、ハードランディングだのと言葉は並べ立てても、とことん堕ちることを誰も知らない。中途半端なところまでしか堕ちないから、坂口が言うように、本物が見えてこない。

セーフティネットとは本来、どん底に落ちた人が這い上がる自助努力を支援するものであって、落ちるべき理由がある人を落ちる前に救い上げてやることではないはず。


さくいん:坂口安吾小林秀雄



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