小林秀雄全集(3)(第十三巻)、小林秀雄、新潮社、2002


小林秀雄全集(第十三巻)

個人全集には、小説、随筆、日記など分野ごとに巻をまとめる方式と、単純に執筆順に並べる方式とがある。最新の小林秀雄全集は後者の方式をとっていて、第十三巻は1964年から1976年に書かれた作品が所収されている。小林秀雄は1902年生れなので、60歳を過ぎたあたりということになる。いわゆる編年体による編集が功を奏して、小林秀雄という文学者が批評という精神面でも成熟し、文体という技法面でも洗練されていく過程を読み取ることができる。

小林は何度も同じ主題について書いている。批評、歴史、常識、伝統などの表題は全集を通じ、繰り返し登場する。もっとも重要な批評精神について、本巻の「批評」では「すべてを疑う、疑う自分さえも疑う」という、それまで否定的に下されていた定義から、「批評とは人をほめる特殊の技術だ」という肯定的な面を押し出した定義へと大転換が行われている。

疑うとは、最終的には無心になることを意味する。先入観や偏見を取り除いて無心に美を見つめるとき、はじめて美の本質に近づける。その美の本質を見つけられたら、もうそれを讃え、愛でるだけでいい。小林の言葉を借りれば、「対象が、文芸であっても、美術であっても、音楽であっても、私はその芸術性というものの自律、他のものでは代置できない価値、それを一貫して信じて来た(「『現代人生論全集』後記」)」ということになるのだろう。「疑う」という批評の基礎訓練を重ねた結果、小林秀雄は本質へほとんど直覚的に意識を照射することができるようになった、と言うこともできるかもしれない。

批評道を極めた小林が編み出す文章は、まさに批評の名人芸というほかない。なかでも明快で芳醇なのは、さまざまな文学全集の内容見本に添えられた文章。全集では一ページに収まるほどの短い文章に、作家の持ち味、全集の意図、歴史的意義などが一切の無駄なく抽出され、何でもないような文章で書かれている。もちろん、対象をほめちぎる内容。

こうした文章を読むと、その全集のよさが即座に理解され、簡単に言えば、読みたくなってくる。このような、言ってみれば、ただの広告文に、実は小林秀雄がたどりついた批評精神と文章技法の最高のものが込められているように思われてならない。

余談。だから私は、小林秀雄作品集の内容見本に寄せる文章を「談」ですませるような自称文学者が、小林秀雄の凄さ、まして批評精神の奥深さを理解しているとはとても思えない。

さらに60歳を越えた批評家は、批評を積極的にとらえなおし、広告文で最高の力を発揮しはじめたとき、職業としての「売文生活」を積極的に受け止めはじめている(「新潮社八十年に寄せて」)。「売文」などといった、やや卑下した表現は内面的な自信の裏返しであり、またそうした言葉で自分を表現できると言うことは、自分自身を冷静に客観的に見ているということでもある。この自信と冷静さが名人芸の重要な柱となっていることは言うまでもない。

第十三巻に収録された作品は、それまでの緊張感の高い文章に比べて、肩の力が抜けた屈託のない文章が多い。また、大岡昇平との対談では、母親への思いや先達正宗白鳥との対談で飲みすぎた失敗談など、文章ではほとんど見ることができない小林の素顔が見られる。数学者、岡潔との対談では、異なる分野を極めた知性を前に、これまた小林には珍しく、熱っぽい語りを見せている。

岡潔との対談では、亡くなった畏友青山義高の俳句を駄句と紹介しながらも、生前の約束を守って、彼の句集の前書きをものしている。不思議なことに、対談で披露されたときは読者にも駄句としか感じられない平凡な俳句が、小林の批評が添えられると奥ゆかしい名句に感じられてくる。すぐれた批評が作品をほめるだけでなく、その輝きまでを増幅させる好例だろう。

精神面、技法面、それらに立脚した人間性全体における成熟が、第十三巻に収められた傑作に結実していることは間違いない。ただし、懸念されるのは、開花した本質的な美を見抜く直覚力と「ほめる」批評精神が、すべてを疑うはずの彼が疑わなかった「日本文化の伝統」に向けられたとき、どのような効果をもたらすのだろうか、ということ。

小林は、「わたしは物識りではなく、珍しい話などはできない。ただ終生身にしみてはなれないことを直示するのみだ」という吉野秀雄が随筆を書いた心境を引きながら、「私は、職業柄、いろいろな種類の文章に接してきたが、著者のいうような文章にしか、近頃は心を動かされなくなった。」ともらしている(「吉野秀雄『やわらかな心』)。まさしく「日本文化の伝統」は、小林自身が「終生身にしみてはなれない」と信じるものである。

そこで小林が「日本文化の伝統」へ向かい合うとき、対象は「身にしみてはなれない」もの、すなわち個別の作品ではなく、伝統の精神へと向けられるのではないだろうか。そして、そのときの態度は「疑う」批評や「ほめる」批評ではなく、「心を動かされる」ような態度になってしまうのではないだろうか。

このような疑念に小林は直接は答えていない。むしろ答えることを拒んでいるようにもみえる。今日出海との対談では、「日本人の本質」を繰り返すのは今のほうで、小林から切り出しているわけではない。小林は「うん」とか「そうだね」とか、相槌を打っていはいるが、それ以上の賛同を示してはいない。また、第十二巻に収められた「感想」では、次のように述べている。

現在の私の心に確実に訴えて来る、自然に関する日本人或は東洋人独特の智慧が、どうして未来のないものと思えようか。私は、その動機や発想において、西洋人のものとは全く異なる裸の自分の心を感じ、心が乱れるのである。

小林は乱れている。冷静に疑いつづける批評家と、「身にしみて」伝統を感じてしまう「日本人」との間で揺れ動いている。ここに文学者、小林秀雄の葛藤を見ずにはいられない。職業的批評家としての責任感の重みを背負い、向かい風に抗いながら批評道を進む修行者。彼の進む先には、おそらく、本居宣長が見えてくるのだろう。


さくいん:小林秀雄


碧岡烏兎