小林秀雄は、「美を求める心」で「若者よ、まず黙って美しいものを見ろ」と檄を飛ばしている。この文章は講演を書き下ろしたものなのか、ですます調で柔らかな物腰だが、内容はむしろ鋭く厳しく、説教くさいところもある。
小林が言わんとするのは、先入観を捨ててまず美しい(といわれている)ものをよく見よう、ということだろう。菫という名前を知ってしまったら、その花の美しさを素直に見入ることはできない、という説明はよくわかるけれども、言葉のもつ魅力もあなどりがたい。
川端康成の『掌の小説』のなかに「かささぎ」という小説がある。それまで名を知らずに見ていた鳥の名を教えられたとき、あえて鳥を見ないで、「かささぎ」という言葉から、川端は鳥のこと、鳥の飛ぶ風景のこと、鳥の名を教えてくれた友人のことと、さまざまに想像をふくらませていく。
小林のあげあしをとるつもりはない。むしろ私は、川端の文豪らしい言葉に対する豊かな感性と同時に、希代の批評家らしい自分の言葉に対する厳しい責任感を小林に感じる。美しさを批評し、解説する立場にいれば、自分なりの美の見方、説明の仕方を伝授したがるほうが自然。
小林はそうしない。若者には「黙ってみろ」と諭しながら、自分では言葉と格闘し、もがきながら書いている。まず見入る。陳腐な言葉で感動が邪魔されないように努めて黙ってみる。それから言葉をさがす、文章を練る。てらてらと光る小石をよけながら、できるだけ荒々しい原石を探す。彼の絵画評は、その苦闘のすえに磨き上げた宝石。多くの人が小林の文章に招かれて美の世界へ分け入ったことだろう。
「文章について」などを読んでみると、「美を求める心」での若者への厳しい説諭の裏に不言実行(この言葉は小林評論の鍵らしい)というべき、背中で語る潔さを感じる。
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