小林秀雄全集(4)(第十一巻)、小林秀雄、新潮社、2002


小林秀雄を読もうと思いたったきっかけは、昨秋、新聞の記事に誘われて出かけた『小林秀雄展 美を求める心』。この展覧会では、本巻所収の「美を求める心」を中心にして、彼の所蔵した美術品が集められていた。そこでまず展示されていた「美を求める心」「近代絵画」を含むこの『全集第十一巻』を図書館で探したところが貸出中だった。そのうち他の巻を先に読み終えた。しばらく遠ざかっていたところで、全集の棚を見ると一度も貸出されていないように全巻揃って置いてある。最初に読もうとした巻が最後になるというのは、何とも奇妙な縁。

批評は研究や評論とは違う、という戦前、戦後を通じて一貫して小林が主張していたことが、本巻でも随所で展開されている。研究や評論は、知識の分類や整理、あるいは新事実の発見を目的とする。これに対して批評は、対象が美術でも文学でも音楽でも、何かに感動する自分を疑うことにはじまり、対象ではなく感動する自分を批評することを最終的な目的とする。

つまり批評精神の最も根源的なもの、純粋なものと辿って行くと自己批評とか自己理解とかいうものを極限としているという事がわかって来る(「批評について」)。

当然小林は自分が書いているものも批評であると考えている。しかし、それは本当に批評と呼べる文章だろうか。書き手本人の思いは別としても、読者には小林の文章は批評と受け止められていただろうか。彼の文章は、むしろ彼が忌避していた評論として読まれ、ほめられ、崇められたのではないだろうか。本巻を読みながら、そんな疑問が頭をよぎる。

批評とは、疑いつづける精神の運動。それは悩む姿を晒す文章ということもできる。ところが小林の文章には悩むどころか断定的な論調が少なくない。また、彼の作品には批評についての批評や文章についての文章、言わばメタ批評、メタ文章が多い。

そうした文章について書かれた文章、メタ文章が断言で締め括られていると、小林はすべてを見通しているように読み手は感じてしまう。つまり、疑うんだと宣言はしているがその実、彼自身が疑うところはほとんど見えない。

彼が自分を疑っていなかったというのではない。自分を疑い、自分を批評することを彼は実践していたに違いない。実際のところ、彼は若いときから悩みの多い人間だったことも、よく知られている。しかし、作品として発表されたものには、悩む姿や疑う運動はほとんど感じられない。断定的な文章は悩みを吹っ切った決意であり、批評の後で削りだされた完成品。

なぜ、疑う姿を見せないのか。その理由は、彼の「文士」としての矜持と責任感にあるように思う。長年連載の場を与えた朝日新聞に感謝を述べたあと、彼は次のように付け加えている。

もう一つは、先年外国旅行をした際、「朝日」の特派員という事にしてもらって出掛けた事だ。通信文を送る約束で行ったが、行ってみると、それどころではないという事がはっきりした。毎日眼ばかりキョロキョロ働かせて、頭は空っぽ、という始末で、どうにもならぬ。だが、送らなければ詐欺になるから、エジプトの奥地から一回だけ送った。
   それ以上、上はの空の原稿を書く事は、文士として詐欺行為をはたらく事になると考えたから、もうなんにも書かずに、ぶらぶら遊んでばかりいる事にした。これも新聞社の為には、何んにもならなかったが、自分の為には、大いになったと思っている(「平凡な寄稿家」)。

ほんとうに衝撃的な感動を受けたとき、その無言の感動を言葉にするのが批評ではなかったか。動揺する自分を問いただしていくのが批評ではないか。ところが、小林はそれをしない。頭がからっぽになるくらいの衝撃を受けても、パリやエジプトを見ることがどれほど自分の思索のためになっても、その衝撃や思索を文章でそのまま表現しようとはしない。思索の運動そのものを直截に表現した森有正とは非常に対照的。

この点から、小林を卑怯者とみなすことはたやすい。しかし、事はそう簡単ではない。むしろ、ここに批評家、小林秀雄の強さを感じないではいられないから。高い完成度をめざした作品を読んでいると、彼は文士として完成度の高い作品を書くという責任感をもっていたように感じる。そしてその責任感と矜持が、感動の衝撃や思索の運動をそのまま表現することをためらわせたように思われる。

小林は、戦前からすでに文壇の中心的存在で、近代批評の確立者という尊称も得ていた。彼は自分を疑う一人の批評家であると同時に、政治に対して美術、文学の独立性を追求し、そうした芸術、文学を世に送り出す役割を担う評論家でもあった。それは若い世代からみれば、指導的立場でもあり偶像でもあった。

これは、小林秀雄が生涯の間もっていたディレンマといっていいのではないだろうか。けれども彼はそうした難しい立場から逃げなかった。むしろ大家であることに甘んじたと言ってもいい。文壇の中心から下りて、自らを批評することに専心することもなければ、書けば売れる大家の地位に胡坐をかいたまま生活や趣味を切り売りするようなことも、彼はしなかった。

実際、小林の毅然とした態度にまつわる逸話は少なくない。常宿としてた旅館の主人に、宣伝しないことを詫びながらも、「オレが死んだら、小林が通った宿と評判になるはず」と語ったという。『全集別巻Ⅱ』で、その旅館の主人が懐かしそうに書いている。

ここまで書いたことを言い直せば、小林秀雄ほど、小林秀雄という文学者の存在を重大視した人はいなかった。それはブランド管理という言い方もできるかもしれない。彼は、小林秀雄という名前で作品を発表することがどういうことか、つねに意識していた。どういう作品が小林秀雄の名前を与えられ、発表されるべきか、つねに思慮していた。

小林秀雄は、日記や草稿の類を残しているだろうか。残していたとしても処分されているかもしれない。何しろ一度は雑誌に掲載された文章でも、二度と印刷してはならないと遺言したほどなのだから。しかも、その理由は「日本の読者がベルクソンを誤解する恐れがあるため」というのだから、文化の伝道者、批評の先駆者としての使命感の強さがうかがい知れる。

太平洋戦争の開戦を考察した「三つの放送」(『全集第五巻』)や坂口安吾との対談「伝統と反逆」(『全集第七巻』)を私は興味深く読んだ。それまで持っていた批評家に対する先入観とは異なる姿を垣間見たから。

ところがそれらの作品は、生前に自選した全集には収録されていなかったことを後から知った。これらを読む前に戻ることはできないが、少なくとも、今後新しい全集の別巻に収録された「感想」を読むことはないだろう。それが、小林秀雄に対する私なりの敬慕の表現。

このように考えて、あらためて彼を知るきっかけとなった「近代絵画」を読み始めてみると、やはり批評家と評論家のディレンマを感じないではいられない。「近代絵画」は、好きな絵について好きなように書いたと言っているけれども、中身には周到に研究したあとが伺える。まだ海外渡航や西洋美術の展覧会が今ほど一般的でなかった当時の事情を考え合わせると、「近代絵画」は批評というより評論、もっといえば紹介として読まれたことは想像に難くない。

今日、このような体裁の文章は、文章の巧い研究者が書くだろう。そうでなければ、小林が批判したはずのまったくの印象論や紀行文をからめたような雑文をタレントが書くだろう。批評の世界は、奇妙なことに専門化と商業化が平行して進んでいる。小林秀雄という先駆者がいながら、彼のような均衡をたもった批評はいまでは主流とは言い切れない。

ともかく、「近代絵画」を、今、そのまま読むことにためらいも感じる。四十年以上も前に書かれた評論的文章は、いかに名文と言われようと、今では否定される情報を含んでいるかもしれないから。

大学で教えない、古典ばかりを推奨、鎌倉在住、骨董趣味、文壇の重鎮。こうした要素から、長年、私は小林秀雄を古典や西洋美術だけをもてはやす悪しき教養主義者と思い込んでいた。文章を読んだことがない私には、「教祖」の評論的な仕事に対する賛辞だけが印象づけられていたからだろう。

今、小林秀雄の作品に直に触れるようになり、同じ要素について、まったく反対の印象をもつようになった。高踏の教養主義者ではなく、自分を疑いながらも自分の持ち場を全うした「文士」として、小林は今映る。

現在、批評の世界は現代思想の用語を散りばめた難解な文章と、社会事象を明快に分析する平易な文章の両極端に分裂しているといわれる。その責任を、ある時期文壇の中心的存在であった小林に帰する説もあれば、両者いずれにも属さない小林の作品は今日読む価値がまったくないという説も聞く。その一方で、新全集の刊行、所蔵美術の展覧会の開催は、小林再評価の動きを象徴している。

私はもちろん、小林を読む価値はないとは、今では思わない。学問的でもなければ、コラム的でもない彼の文章には、引き裂かれた批評を再び統一する手がかりがあるように思う。ただし、そのためには彼が持ち場とした「文士」とは何かを徹底的に疑う必要がある。

「美を求める心」を起点に、大家小林の印象を転回して、「美を求める心」へ読書は戻ってきた。全集を一通り読んだといっても、本居宣長やドストエフスキーなど、現時点で関心が低いものや原典を読んでいない作品は未読のまま。いつ始まるかわからないが、次の全集通読の機会が楽しみでならない。


さくいん:小林秀雄


碧岡烏兎