森有正エッセー集成1「バビロンの流れのほとりにて」他、(原著1957-1968)、二宮正之編、二宮正之(解説)、ちくま学芸文庫、1999


森有正エッセー集成 1

本書を読んだ感想を言葉にするのは簡単ではない。まして読んで考えたこと、正確に言えば考えはじめたことを書くことなど、今はまったくできない。それは本書の読書が単なる読書以上の体験となったから。

ある出来事を体験した「感覚」を内面的な「経験」へと深め、その上で他者と未来へ開かれた、すなわち普遍的な「思想」へ結晶化し、自分の言葉で表現するまでにはかなりの時間を要する。

そのことは森が繰り返し述べているし、彼のエッセーが長い年月を経て出来上がった事実からもわかる。従って、これから書くことは、本書の成り立ちやその周辺についての感想であり、また、これからの思索のために道標として書き残す覚書にすぎない。


これから森のエッセーを読み進めていく前に考えておきたいことが二点ある。一点目は、創作の意味。これほど自己の内面を語り、また旅程や生活の子細を書き、何より日記体という体裁をもたせながら、森は一連のエッセーは「創作」であると述べているという。二宮正之は解題で、この点を指摘した上で、作品中の「僕」は「著者の反省的視線をくぐって生まれた「人物」としての性格をもつ」と述べている。

これに関連して気づくことは、書名「バビロンの流れのほとりにて」の出所。作品では題名はパスカルの『パンセ』から採られたことになっている。「バビロンの流れのほとりにて」という題名はパスカルだけでなく、バッハのオルガン曲にもある。実は、あるインタビューのなかでもっとも好きなバッハ作品は「バビロンの流れのほとりにて(BWV653b)」であると森は答えている(コンパクトディスク『思想の源泉としての音楽~新しく生きること』フィリップス、1987)。

この作為的な置換には、どのような意味があるのだろうか。森有正個人は「バビロン」という言葉でバッハを思い描き、一方「バビロンの流れのほとりにて」の筆者は同じ言葉で『パンセ』を思い描いているということなのか。「あとがき」にあるのは森有正の署名ではなく、「筆者」という言葉だけ。

大切なことは、そうした創作の真意を探求することではない。森有正の作品は森有正個人からは切り離して読む必要があるということ。「バビロンの流れのほとりにて」はきわめて魅力的で吸引力の強い作品。それだけに本書で展開されるさまざまな思想を森個人へ短絡的に結びつけたくなるけれども、そうすることは作品の本質を見誤らせる危険性をもっている。

経験の思想を森個人の資質や境遇に還元したり、読者自身の資質や境遇を無視して作品に自己投影したりしていては、エッセーの本質は体得できない。


まさしく、この作品は読むだけでなく、そこで展開された言わば精神の修練を自らも試みてみないことには、読んだことにはならない、と私は思う。そこで、今後の読書と思索を私自身の試み、すなわちエッセイとするために、まず作品を森個人からある程度引き離してみる必要がある。

また森が書き記したのは、彼の体験と感覚ではなく、彼がたどり着いた経験と思想であると理解するならば、やはり本書は個人的な独白ではなく、普遍的な文学作品として読まれるべきだろう。

ところで、まったく同じことがジャン=ジャック・ルソーの『告白』について言える。近代小説の幕開けとも呼ばれるこの自伝的作品は、同時に多くの創作を含んでいることが指摘されている。このことは、ルソーが虚言癖をもっていたことを意味しない。むしろルソーは自己の内面を徹底的に探求し、そこから近代的自我という普遍的な思想を析出としたと見るべきではないだろうか。

そうでなければ、作品として発表する必要などなく、教会で一人懺悔をすればよかったはず。

そのように考えると森のエッセーから『告白』を連想するのは、あながち的外れではないかもしれない。つまり森のエッセーは、たとえそれが日本語で書かれているとしても、ヨーロッパの近代文学史に位置づけられることができる主題を中心にしていると言えるのではないだろうか。実際、「バビロンの流れのほとりにて」の草稿はフランス語で書かれており、実現はされなかったが、フランス語での全訳も計画していた。


森有正を読みすすめるうえで留意しなければならないと思われるもう一点は、旅という主題について、より正確に言えば旅から還る場所について。「バビロンの流れのほとりにて」は長い旅の物語。それは東京からパリ、ローマ、ギリシアへの身体の旅であると同時に、感覚から経験を経て思想へと到る精神の遍歴でもある。両者が重なるところに本書の奥深い魅力があることは言うまでもない。

旅には必ず旅立つ場所がある。「バビロンの流れのほとりにて」において旅立つところは、今の自分自身。そして旅には還るところがある。終わりのない旅もないわけではないとしても、少なくとも「バビロンの流れのほとりにて」から始まる旅は、冒頭で帰ることを明らかにしている。つまり還るために出発する。その意味では、旅は遠ざかりながら近づいていく道程でもある。

フランス文学をやったことも、今こうして遠く異郷に来てしまったことも、その長い道のりの部分として、あそこから出て、あそこに還ってゆく道のりの途上の出来ごととして、同じ色の中に溶けこんでしまうようだ。
(「バビロンの流れのほとりにて」一九五三年十月八日)

この点は、今の私にも何となく理解できる。理解しがたいのは文中「あそこ」とされている、森が「決定的にここに帰ってくる」と信じている場所。なぜその場所が自分の家の墓なのだろうか。なぜ旅の初めからたどり着く場所を墓と決め込んでいるのだろうか。森に複雑な家庭の事情があったことは、別の本でも指摘されているが、本書のなかでは詳しく書かれているわけではない。森は、「バビロン」の「僕」にとって、家庭事情の仔細は精神遍歴の上では書くべきことではないとみなしているように見える。


これはある面で正しく、ある面では正しくない。「バビロン」で展開される魂の遍歴を普遍的な思想の運動ととらえれば、そこに「僕」とは別な人格である森個人の生活から反映されていないものがあっても不思議ではない。ただし、それは森個人のなかで家庭を含む個人的事情が思想形成にとって無関係であったというわけではない。

個人的事情が書かれていようとなかろうと、むしろ書かれていないからこそ、これから読み進むエッセーに広がる思想にそれが色濃く影を落としているように思われる。この点でも一連のエッセーは創作とみなして読むべきであろう。書かれていないことは、思索を経由して別の言葉で「表現」されているに違いない。

森が抱えていた家庭の事情を他の資料から詮索してみても何の益もない。森の人生を研究することに私は意味を見出さないから。これからエッセーを読み進む私は、書かれていない問題を自分の内面で埋め合わせていかなければならない。

書かれていないことは何か、その何かは私にとってどのような意味があるか、そうしたことを考え合わせながら読み進まなければ、エッセーの読書を私自身の試みにすることはできない。


それにしても、旅に出るまえから還る場所を墓と想定しているのはあまりにも悲しい。その決意には強く共感する。それにしても、墓を還る場所とするような悲愴、森の言う「デゾラシオン」は途方もなく暗く深い。

私が「決定的に」帰る場所は墓ではない。家族日常生活、読書も文筆もない日々の何気ない暮らし。「僕」がそうであったように、私にも帰る場所ははじめからわかっている。それでも遠く出かけなければならない。

「僕」が還る場所はもう一つある。それは日本。そのことははっきりしているけれど、日本という言葉によって示される内実は「バビロン」と「流れのほとりにて」ではまだはっきりしていない。一時帰国する際に窓から見下ろした列島の姿に「僕」は「日本」を見ている。それはきわめて漠然とした輪郭にすぎない。ここではまだ、日本の本質はつかまれていない。

この問題について、文化の本質は言葉にあること、さらには言葉によって規定される人間関係の基本認識に存することを、やがて森は突き止めていく。晩年の著作、講演では、一人称、二人称、三人称の問題が繰り返して論じられる。森にとって問題とすべき「日本」は二人称に縛られた他者性のない人間関係。そこへ到る道筋は、今後読み進めていけば、もっとよく理解できるだろう。


問題はここでも、森が見出した日本の本質、すなわち彼が帰る場所と規定した内容について議論することではない。私自身が遠ざかりながら帰るところはどこなのか、その本質は何か、そうした問題を考えなければならない。

私にとって帰るところは日本ではない。日本という概念が一切関心事でないというわけではないけれども、たいした問題ではない。むしろ還るべき、また見つめるべき問題は、私の大衆性であり、私が育った大衆文化にある

自分を育んできた大衆文化に対する郷愁と反感が、私にはある。同時に、教養文化に対する憧憬と劣等感がある。では、大衆文化や教養文化とは何なのか。「僕」にとって日本が空から見下ろした列島の輪郭だけであったように、今の私にはうまく説明がつかない。そこから遠ざかろうとし、またそこへ帰っていくとわかってはいても、今はぼんやりとした輪郭しか見えてこない。

森有正の導きによってようやく私自身が思索すべき問題のとば口に立つことができたような気がする。いや、導いたのは本書だけではない。森有正までたどり着くことができたのは、それまでの本や人との出会い、さまざまな体験があったから

これまでの読書と体験がこの境地に立つためだったと、少しだけ思えるようになってきた。その意味でも、ここがようやくたどりついた出発点といえる。


「すべてのわざには時がある」という言葉を聞いたことがある。それは読書についても当てはまるように思われてならない。本との出会いにも時があり、読むべき時がある。荒川洋治のもっと詩的な言い方を借りれば、「本がもうそろそろだよとささやいてくる」となるだろうか。その時がいつ訪れるかは、人によってそれぞれ違う。

おそらく本書をもっと若い時に読んでもこれほど感動することもなければ、思索の契機となることもなかったのではないだろうか。読書で感動するのは若さの特権だけではあるまい。何しろ、森有正自身が自己の根源へとたどる思索を開始したのは、四十代も半ばになってからだった。彼は感覚を経験に深めていくだけでも一生かかると何度も述べている。本を読むこと、考えること、そして当然ながら生きていくことは、死ぬまで続く。


『森有正エッセー集成 2』

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碧岡烏兎