「教養」とは何か、阿部謹也、講談社現代新書、1997


私の関心に、ずばり的中する書名。内容も従来は一般的だった教養観や、私が意識せず保持している教養観に、風穴をあけるような示唆に富んでいる。それらをまとめると次の三点に要約できる。

教養は、一人で完結するものではない。

読書や学習を通じて得た教養は、職工仕事によって深められなければならない。

教養とは、「世間」のなかに生き、「世間」にはたらきかけ、それを変えていく知恵。

いずれも斬新な発想。それは認める。けれども、疑うことに慣れた身にはそれぞれに疑問が残る。


「教養」は一人で完結するものでないとしても、それを身につける方途は一人一人が見つけ出し、それぞれがたどっていくほかないのではないか。「教養」とは本来、教えることができるようなものではないはず。

阿部の論述で気になるのは「我が国の『世間』」という言い方。疑問は二点。第一に、彼は西欧の個人主義を、「世間」、すなわち社会や共同体から乖離した存在とみなしている節がある。西欧の個人主義は、「神の下の平等」というキリスト教的な人間観を柱としているのは間違いないとしても、柱はそればかりではない。ギリシアやローマの共同体観や人間観、ゲルマンの社会観、契約観などの影響も見逃してはならない。要するに、西欧において、個人主義は共同体との相克を通じて形成、発展してきたとみるべきではないだろうか。


第二に、西洋の個人主義を平板に理解する一方で、日本社会の個人観、社会観にも立体感がない。鎖国時代ならともかく、開国から200年以上たったいま、私たちが住んでいるのは純粋に日本的な世間ではない。突き詰めて考えれば、「純粋に日本的な世間」などいつの時代にもない。現代日本は、西欧的自我への憧憬、それを獲得しようとする努力と挫折、すでに獲得した人々、それらが入り混じった社会であり、個人の内面でもその局面は複雑に入り組んでいる。その混沌を直視せずに、西欧対日本という図式に収めてしまうのは、いささか単純すぎる。

西欧の個人主義は所与ではない。歴史を通じ努力の末にたどりついたものであり、現在でもなおその探求は続いている。そう考えるべきではないだろうか。

そう考えれば、私たちも努力次第で同じものを身につけることができると考えることができる。もちろんその方法は西欧の人々とは異なる。出発点も条件も異なるのだから。厳密に言えば、その出発点、条件、そして方法は、一人一人によって違うはず。


阿部はサン=ヴィクトルのフーゴーを引きながら、教養を修めた者は陶工や靴直しの職につくべきと述べている。この考え方は、教養を書物や芸術のなかにだけ見出そうとする考え方に対しては、大転換を迫るものにみえる。しかし、順序はあくまで書物や芸術が先で、職工仕事が後におかれていることは見逃せない。

初めから陶工や靴直しの仕事をはじめた人は、永遠に教養を身につけないというのだろうか。仕事を通じて行われる人間形成は、教養とは呼べないのだろうか。ここに文字と言葉で考え、働き、生きる、いわゆる知識人の驕りを感じないではいられない。


阿部は、文字を知らず、にもかかわらず自らの働きで人々の暮らしを支えていることを知る中世の農民は、「いかに生きるか」という問いを立てる必要はなかったと述べている。中世の農民は、収穫のことと租税のことだけ考えていたわけではあるまい。

人と共に暮らし働くこと、病や老い、死、そうした問題を彼らなりに考えていなかったはずはない。仮に実利的なことだけが彼らの悩みの種であったとしても、そこから「いかに生きるか」という悩みに到ることがなかったとは思われない。

中世の農民に対する偏見をあえて非難するのは、実は、似たような考え方が、現代でも流布されているように思われるから。文章も書かず、難しい本を読まない賃金労働者や家事労働者は、社会の役に立っているが教養はもっていない大衆に過ぎないと、自称知識人たちは考えていないか。少し知識や読書の力があるだけで人を見下していると、職工仕事を知識人、教養人になるための一時的な修行としか思えない。それは修行ではなく、モラトリアムに過ぎない。

一流の職工ならば、その仕事を究めるためには一生をかけなければならないと一喝するに違いない。世の中には、本など一冊も読まなくても人生の意味を知り、それを語ることなく生きる人がいる。本を読む人は、まずそのことを肝に銘じなければならない。そう考えると、人を蔑む資格どころか、むしろ書物を通じてしか人生の意味がわからないのは、悲しむべきことではないだろうか。


もう一つ、阿部が引くフーゴーの言葉から、「教養」の別な一面が見てとれる。

祖国が甘美であると思う人はいまだ繊弱な人にすぎない。けれども、すべての地が祖国であると思う人はすでに力強い人である。がしかし、全世界が流謫の地であると思う人は完全な人である。

阿部の解釈では、一人目は世界への愛を固定し、二人目は愛を分散し、三人目は世界への愛を否定している。つまり、三人目は西欧的な教養の究極の姿であるけれども、それは現世否定をはらんでいると阿部はみる。


私はそうは思わない。全世界が「流謫の地」であるということは、そこでは国もなければ、敵も味方もない、王も諸侯も親方もない。彼に見えているのは、ともに暮らす「人間」だけ。ここには汎神論的キリスト教観の影響は見られるとしても、現世否定どころか、徹底的な現世肯定と根源的な人間肯定につながる可能性さえ、私には感じられる。

フーゴーの解釈からも明らかなように、阿部は世界、国家、「世間」を所与として、また地理的に固定して考えている。私たちがいま生きている現代社会とは、まさに到るところ「流謫の地」のような世界ではないだろうか。隣人は同胞とは限らず、固定した人間関係を強いてきた企業社会も変化しつつある。国籍、宗教、職業など共通性は何もなくても共に生きる必要があり、また共に生きる楽しみがある。


「教養」とは、そのように自分とは異なる何かをもつ人々と共に生きる知恵と言えるかもしれない。また、阿部の言葉を借りれば、自分を活かす「世間」を自分のなかに見つけ、自分の外に創りだすことかもしれない。

批判的なことばかり書いてきたけれども、このように考えてくることができたのは、本書の示唆に負うところが大きい。本書の読後には、問題集をやりながら、ちらっと解答を見てしまったような気持がした。解法については、やはり自分で試してみるほかない。


碧岡烏兎