最後の手紙

烏兎の庭 - jardin dans le coeur

第五部

東洋文庫 モリソン書庫

3/20/2016/SUN

語る西田哲学――西田幾多郎 談話・対談・講演集、書肆心水、2014


語る西田
我々の最も平凡な日常の生活が何であるかを最も深く掴むことに依って最も深い哲学が生れるのである

西田幾多郎哲学館で見つけた一文は、ずっと心に残っていた。「最も平凡な日常の生活」を「最も深く掴む」とは、いったいどういうことなのか。書店で西田の座談や講演をまとめた新刊に上の一文を含む講演、「歴史的身体」を見つけた。

講演は1937年、長野市女子専門学校で行われた。


西田の文章は難解で、わかりにくい、とよく言われる。哲学という学問を体系的に学んだことがないので、 他の哲学者と比べて難しいかどうか、判断できない。少なくとも、座談や随筆はわかりにくくはない。西田の哲学よりも、西田の思想に私は興味があるので、主著『善の研究』を読んでからは、もっぱら随筆や短歌などを読んできた。

哲学と思想との違いは、何か。私なりの区別は、前者は客観的に理解し提示できる「学問」であるのに対して、後者は文章をはじめとする「表現」に現れる、その人の基本的なものの見方や考え方、「生き方」を指す。「表現」という語は、西田の思想においても重要。

講演や座談を読んですぐ気がつくことは、西田が最初に出版した『善の研究』を思索の原点としてずっと大切にしていること。『善の研究』から「こう変わった」「このような見方に転じた」という表現に多く出会う。西田は改版するたびに、『善の研究』の前書きを書き足している。そこでも、執筆時からの思索の変遷を簡潔に要点をまとめて説明している。

次々と流行に合わせて出版する学者や自称思想家が多いなかで、ここまで原点を重視する思想家は、現代では他に知らない。もっとも、私は同年代で哲学や思想に関わっている人の本をほとんど読んでいないので、そういう人も、あるいはいるのかもしれない。


しばらく前に『自己肯定感、持っていますか?』という本を読んだ。著者は自己肯定感は他者を尊重することで高まる、と主張していた。「自分探し」や「いいとこ探し」をいくらしても、他者とほどよい距離を保つことができなければ、高い自己肯定感を持つことはできない。

私は、自分の言葉で「人は人、自分は自分」と言い換えて、この主張には納得した。

ただ、何か足りないような気がした。他者を尊重する、他者と適度な距離を持つ、それでは、他者と距離を持つ自己は、どのようにして成り立つのだろうか。自己肯定感の源泉はどこにあるのか。自分自身のなかに見つけることはできないのか。

自分自身を受容し、自分がなすべきことをし、他者と社会に積極的に関わっていく。その際、自己肯定感の物差しは他者ではなく、自分自身のなかに見出されなければならない。明確な理由付けはないもの、私はそう考えている。だから、他者との距離感だけで成り立つ自己肯定感に疑問が残った。

もう一つ、別の問いがある。他者を尊重しながら自己を保つ。では、その次の段階は何だろう。言い換えれば、肯定感を得た自己は他者とどのように関わっていけばいいのだろうか。

このような疑問が思い浮かんだときに、一読したまま感想を書けずにいた『語る西田哲学』を思い出した。


西田も、他者との関係で自己は個人として存在すると言う。

人間が人間であるためには独立の人間でなければならぬ。しかし他を主とするところに人格がなければならない。
(「時と人格」)
   人格は独立自由なものである。しかし時を離れた自由ではない。時と結びつき時を限定するものである。物に対しているとき、人格はない。他人を認めることによって自己が認められるのである。自己の底に他を認めるのである。内面的に結びつくのである。
 (「時と人格」)

これらの文章を読むかぎり、西田は、「他者を尊重することで自己が成り立つ」という主張に、異論は持っていないようにみえる。

気になるのは「自己の底に他を認める」という一文。これは、「他者を尊重する」ことから一歩、踏み込んでいる。他者は、自己のなかにいると言うのだから。


「自己の底に他を認める」とは、どういうことか。三木清との対談で、西田は次のようにも語っている。

   <三木> 表現というのは、突き詰めると、どういうことでしょうか。
   <西田> 表現というのは自分を否定し他者において自分を見るということだ。それがまた働くということの意味で、働くという場合、二つのものが関係するので、そこにはいつも自分を否定し他において自分をみて肯定するという意味がある。
(「西田幾多郎博士との一問一答」)

「他者において自分を見る」ということは、単純に「他者を尊重する」こととは何かしら違うように見える。

ここで、「表現」という言葉が使われる。「他者を尊重する」ということは、西田の考えに従えば、ただ適度な距離を保つだけでは十分でなく、他者が存在する世界に働きかけることでなければならない。

自己のうちに他者を見るということは、次のように言い換えられている。ここでは「表現」の源泉として「自覚」という言葉が使われている。

世界を自分のうちに含んでいるということが考えられねば自覚ということを考えられぬ。単に内のみでは夢で、夢では真の自己ではない。外と内の結びつきが、自己の内になければならぬ。こう言う矛盾の統一が自覚で、行為によって自己が摑めるのである。
(「実在の根底としての人格概念」)

西田は、主観と客体を対峙させてみる二元論を厳しく批判する。自己と世界とは対立しない。相互依存的な関係にある。 『善の研究』で説かれているように、自己があって世界があるのではない。世界から経験を与えられて、初めて自己は存在する。しかし、自己は世界に作られるだけではなく、新たに世界を作り出すことができる。これを西田は「表現」あるいは「行為」と呼ぶ。


二点、注記しておく。

一つ目。「表現」や「行為」は、何かを「する」ことだけを意味するものではない。場合によっては「生きている」だけで「存在」するだけで、「表現」となり「行為」となることもある。

丸山眞男の言葉をもじれば、「である」ことが「すること」になる場合もある、ということ。人間は存在するという最低の次元においてすでに尊厳なのだ」という言葉も読んだことがある。

二つ目。「他者において自分を見る」という西田の言葉を読んだとき、10年以上前に私小説や自伝的小説について書いたことを思い出した。

   自伝的小説とは、自分がみたもの、考えたことを、他人がみたように、他人が考えたように書くこと。これは、やさしいことではない。さらに、その他人がみたように書いたものを、自分の視点で読みなおし、考えなおす。これをするためには、自分自身を二重三重に裏返さなければならない。

上の文章は、森山啓の自伝的小説『谷間の女たち』の感想に書いたもの。西田の言う「他者において自分を見る」ということと、それほど隔たりはないと思う。

西田は、「他者において自分を見る」ということについて、次のようにも語っている。

   行為的自覚とはどういう事かというと、自分の底に他を見る、自分の内に絶対の他を見る、他が即ち自己である。だから絶対の他において自己を見るという事である。これを離してしまって単に自己の中に他を見ると云えば、理想主義、唯心論の立場になってしまう。又逆に離して絶対の他において自己を見ると云えば、唯物論になってしまう。この二つがくっついている処に真の自己がある。自己において他を見る、恰度逆の絶対の他において自己を見る、この二つが結び付いて居なければならぬ。これが私の自己というものである。
(「実在の根底としての人格概念」)
(前略)本当の自己は一方から考えると自分の底に何処までも非合理的のものを見る、何処までも自分の中に他を見るというように、自己の内に他を見るのである。他から自分というものが何処までも限定されるのである。これが本当の自己である。これが本当の自覚である。
(「実在の根底としての人格概念」)

「表現」や「行為」は、自分のなかから生まれるものでありながら、外側から自分を見なければ生み出すことができない。


かつて、まだ西田幾多郎を読む前小林秀雄森有正を読み終えたあとで、「スタイル」という語で、こうした自己の内的な統一と外へ向かう表現や行為を考えたことがある。そこでは、「感覚→自己→嗜好/志向→趣味/随想→思想/批評→社会/対象→世界」という同心円に見立てて、世界が感覚に与える体験と自己から世界へ広がる表現と行動を図式化した。

自画自賛になるが、私が構想した「同心円」という考え方は、西田が考える人間形成の過程と図式と似ているところがある。

まとめると、「自己肯定感」という概念を西田幾多郎が用いる言葉で表現すると、「純粋経験→自己→自覚→行為→人格」という人間形成の発展過程となる。「人格」という概念は弟子である三木清も重視している。

西田哲学の入門書を読むと、冒頭の講演の題名で「歴史的身体」と示しているように、西田は晩年に、行為と人格から「歴史」という概念に発展していったらしい。行為がどのようにして歴史と関わるのか。この点は、私にはまだよくわからない。よくわからないので、気になったことろを引用だけしておく。

   <西田> これまでのヒューマニズムは個人の自由を中心に考えている。それはつまり個人主義なんだ。ところが本当の人間はそんなものではなく、人間というものは歴史の創造的エレメントであって、そのオペレーターの意味をもっている。むろん人間には個人的自由がなくてはならず、今日一派の人が云うように単にそれを否定するのは人間を否定することであるが、しかしそれのみからは本当の人間は考えられぬ。人間は歴史的世界のエレメントとして働くものである。これまでの人間の観念はアトミスティックであった。けれども本当の人間はアトムのようなものでなく、歴史的世界から生まれるものである。我々はこの世界から生まれ、働き、死んでゆく。今迄の哲学はこの「生れる」ということを考えていない。我々は自由に働く。その自由の働きは孤立した人間の意識から出てくるのでなく、歴史的世界から生まれてくる。自由に働く人間そのものがそこから生れてくるところが歴史的世界なんだ。新しいヒューマニズムはこのような人間を考えてゆかねばならぬ。
(「ヒューマニズムの現代的意義」)

蛇足ながら書いておく。同じことを森有正の言葉を借りて言えば、「 体験感覚促し表現経験」、となる。

西田は、「内なる基準」に「絶対的他者」と言う言葉をあてているように見える。この点は、まだ理解に自信がない。森にとっては、当然、「神」への思い、すなわち「信仰」が内的な基準となる。とはいえ、森有正の「信仰」観は簡単に理解できるものではない。

森は、牧師の息子に生まれ、カルヴァン派プロテスタントとして洗礼を受けたにもかかわらず、カトリック系の学校に寄宿し、神父からフランス語と西欧文化を学んだ。

渡仏後も森はプロテスタントでありつづけたが、何度も改宗について語っている。

また、『アブラハムの生涯』と題した講演を行っていたことからも、彼の思索は旧約聖書カトリック神学に影響を受けていることがわかる。もっとも、森の著作にはパスカルについての記述も多く、内村鑑三論も上梓しているので、安易に結論付けることはできない。さしあたり、一派ではなく、さまざまなキリスト教思想から影響を受けていた、と言うべきだろう。

こうなると、私にはまったく太刀打ちできない領域となる。理解できてないことについて、これ以上語るのは止めておく。


写真は、東洋文庫ミュージアムのモリソン書庫


さくいん:西田幾多郎森有正