自己の同心円ーー広がるスタイル(模式図つき)


スタイルという言葉について考えていて、ふと、ジョハリの心の窓という心理学の道具を思い出した。田の字に切った四角を、自分も知っていて他人も知っている自分、自分は知っているが他人は知らない自分、自分も他人も知らない自分、自分は知らずに他人が知っている自分に、それぞれ割り当てる。それぞれ該当する箱に自分で、あるいは他人に書き入れてもらい、自分の性格を分析する。自分を立体的に把握することが、ジョハリの窓の目的。

ジョハリの窓を知ったのは、学校を出て就職した企業で研修のために送られた工場。研修の一環ではなく、指導にあたった製造部の係長が教えてくれた。工場は人が育つところ、という意識が働く人にも共有されていると強く印象づけられたことを覚えている。

自分を知るためにジョハリの窓は小道具として役に立つ。ただし、スタイルという語で人と思想を考えるとき、ジョハリの窓は立体的ではあっても、動的ではないように感じられる。スタイルは、変貌する。またスタイルは自己認識や他人からの評価だけではなく、他人や社会への関わりも重視する。

何といってもスタイルは、性格だけではなく、自己表現に関わる。要するにスタイルは、ジョハリの心の窓では充分に表現できない。そこで、心の窓の図式を見習って、スタイルの図式化を試してみることにする。


スタイルは自己を中心にして同心円状に広がる。中心からやや離れたところにドーナツのような帯状に自己がある。自己を近くで観察すると、外側に嗜好、趣味、あるいはプリファランスと呼ばれる帯がある。自分の好きなもの、ほとんど意識をしない日常生活、身の回りの出来事がここに含まれる。その外側を随想の輪が囲む。趣味のなかから、文章に表現されるものが随想になる。

随想の外側は批評。批評の外側には対象がある。対象は社会で起こる事件のうち自分が興味をもつものや、本やその他のメディアを通じて自覚的に学ぶもの。自分の外側で起こる事象や本や媒体から学んだことを文章にすると批評になる。

随想と批評は、表現の世界。私の場合、碧岡烏兎の筆名の世界ということもできる。随想と批評は明確に区切られるものではない。対象、すなわちある事件に関心をもったり、本を読んだりするのは、自分の嗜好が影響している。

ここで嗜好というのは必ずしも好きということでもない。知らず知らずのうちに関心を向けてしまうもの。その意味では嗜好性だけでなく、志向性の現れ。


随想と批評を分けるのは、自分を冷静に見る客観性と自分の外側へ向かう働きかけ。好き嫌いを書き散らすだけでは随想の域をでない。また、ただ調べたことを書き連ねるだけでも批評ではない。自分の外側にある事象や表現から、自分を見つめなおす、あるいは自分の身の回りの出来事から社会を見つめなおす、そうした動的な文章が批評となる。

同じように自分へ差し込む感動を前者は体験、後者は反省ということもできる。反省は自分の見知った領域からしか始まらないが、体験はときに自分のまったく知らない場所から自己を一撃することがある。自己から外に対する運動は、社会的な意味が強ければ行動と言えるし、運動そのものに重点をおけば表現ということもできる。行動は自分の関わる世界にしか届かないが、表現は自分の思いが及びもしないところへ影響をもたらすこともある。

行動と表現は区別できるものではなく、行為のもつ側面である。文章を書くことは、行動でもあり表現でもある。また、一つの行為が、見ず知らずの他人に影響を与えるとき、それは行動ではなく表現とみなすことができる。

随想と批評のあいだは、グラデーションになって、少しずつ移り変わっている。あるいは見る角度によって色が変わるシールのように、同じ文章でも批評的な部分もあれば、随想的な部分もある。同じ文章でも、読む人、読むときによって、その陰影は違う。


対象の外側には世界がある。そこはまだ私の知らない世界。知らなくても確かに存在はしている。同じように、自己の内側にも未知の領域がある。随想以前の嗜好にすらならない自覚のない自己。とはいえ、自己の一部であることには変わりない。この領域は感覚ということもできる。身体の大部分はここにある。忘れられた記憶もここにある。体調に異変が起きたり、突然何かを思い出すと、ここから嗜好が噴出し、痛みという身体表現や随想という文章表現になる。

ところで、立ち読みした底浅い知識によれば、ウィトゲンシュタインはこの領域を神と言ったらしい。私にはまだそこまではいえない。ただ、一番外側の世界と一番内側の自己の空白は、同じように未知であるがゆえに、実は背後でつながることは予想される。

自己にまつわる嗜好や、外側の事象や表現をきっかけにして自己を表現をすること、それがスタイル。私の場合は文章表現の形式をとる。表現方法は人それぞれだろう。


表現を続けることにより、同心円を囲む帯はそれぞれ広がっていく。広がらなければ、表現は深まらない。反省と表現を繰り返すと、随想と批評からなる表現の領域は広がるけれども、一番外側にある対象も同時に広がらなければ、自己の内側が狭くなってくる。表現ばかり、反省ばかりをすれば、今度は対象の領域が狭くなり、同じように自己は表現の領域に圧迫されて狭くなる。対象を広げ、表現の世界を広げ、自己を広げる。スタイルを広げることは、懐を広くすることであり、人間の器を広くすること。

表現も反省もしないでいると、内側にある空白がどんどん大きくなる。最内奥は、言ってみれば心の空き地。忘れられたものだけでなく、忘れたいものも放り込まれている。ここは無理して鍵をかけるところではないけれども、荒れ放題にしておいても自己を侵食してくる。ほどほどの大きさで維持しておくことが肝要。

スタイルは、表現を続けて自己を囲む同心円が広がっていくこと。変化すること、広がる動きがスタイルの本質。その運動の推進力は、私にとっては表現を担う碧岡烏兎という筆名。筆名を使って文章を書き始めてよかった。碧岡烏兎として書くこと、書かないことを自然に意識するから。嗜好に水準にあること、それ以前の自己の領域にあること、随想、批評として表現されること、そうした同心円の境界線を意識することは、表現を向上するために役立っていると思う。


読んだ本や聴いた音楽について文章を書いていても、私個人が触れるすべてを文章にしているわけではない。意識的な取捨選択もある。また、意識はしていないのに、たびたび聴いている音楽について急に文章にしたくなることもある。その時、嗜好は随想へ向かって動き出している。

碧岡烏兎という存在は、私が生み出したものであるにもかかわらず、私個人とは別の存在。しかし、それはいわゆるキャラクターというものではない。

キャラと略称される存在は、人間のある性格や傾向を写し取った類型であり、基本的には変化しない。のび太はいつまでものび太である。突然、弱気を克服し、ジャイアンからガキ大将の地位を奪ってしまったら、『ドラえもん』の世界は成り立たない。

キャラは、あるところまでは成長を続けるとしても、それ以後、むしろ変化することを拒むことでキャラを維持する。長編小説、長編マンガを読むとよくわかる。初めの頃こそ、登場人物の行動、台詞に落ち着きがないが、一度キャラが成立すると、今度はキャラを崩さないように作者は苦労するもの。


キャラという考え方は、マンガや文章の世界だけでなく最近では日常生活でも利用されている。職場の自分、家庭の自分、昔の仲間と会う自分、など、現代人の多くが知らず知らずのうちにキャラを使い分けている。それにしても、キャラの使い分けは、遅かれ早かれ内的な破綻を生む。

明治時代の知識人の多くは和魂洋才というたった二種類のキャラの使い分けでも苦悩したのではなかったか。社会生活、人間関係が複雑になるほど、キャラは増殖し、その管理に追われる。では、複数のキャラを使い分けるのは一体誰か。キャラの使い分けは現代生活で不可避であるとしても、それはなおさら、統一的な人格が必要であることを示しているのではないだろうか。


ところで、このキャラを使い分けるという現代人の習性が、本や音楽をはじめ文化芸能のあらゆる分野で異常なベストセラーを生んでいるような気がしてならない。職場や学校という公の場で人は自分の嗜好を他人に受け入れられる形で見せようとする。手っ取り早いのは、売れている本、売れている音楽、皆が見ている番組を話題にすること。

多くの人がベストセラーを買う。心ある人は、自分のために別の本も一緒に買う。その本のことはけっして職場では話題にしない。何も考えない人はベストセラーだけを買う。しかも話題を合わせるためだけに買う。

ベストセラーであろうと、人が表現するものである限り、そこには何らかのスタイルがあり、自分のスタイルを変える体験にもなりうるはず。しかしベストセラーの多くはその質とは関係なく、たださまざまなキャラに共通の話題を提供するためだけに消費される。

キャラの使い分けが破綻するのは、上手下手の問題ではない。人間は一人で生きている以上、内的な統一を必要とする。現代社会は、キャラの使い分けを求めるような複雑な対人関係を迫るけれども、だからこそ内的な統一をもって一つの人格として社会に関わることが、自分にとっても社会にとっても有益なのではないだろうか。

幸か不幸か、私のなかでは初めから多数のキャラが破綻をきたして存在していたため、キャラを使い分けることの不毛を痛いほど知っている。内的な統一を獲得ことはもちろん簡単ではない、だろう。私もその途上にあるので、難しいだろうとしか言えない。


表面的にはキャラを使い分けるほうがやさしく見える。しかし、少なくとも私の場合、退路は絶たれている。スタイルが一つの同心円であるのは、複数のキャラを使い分けることに抵抗するから。スタイルは、自己を統一する過程。

興味をもつ対象を広げること、碧岡烏兎の表現と私個人の嗜好が重なる部分を広げること、それでいて空白の内奥を広く深く保つこと。それはけっして自己を分裂させることではない、はず。

参考:模式図


碧岡烏兎