ナンシー関の方法論


先日惜しくも亡くなったコラムニスト消しゴム版画家、ナンシー関の魅力を一言で言えば、芸能界をマーケティングの方法論で分析したこと。もちろん彼女はマーケティングの専門家ではないけれども、おそらく専門家以上にマーケティングの本質を直感的にとらえていた。ここでいうマーケティングとは、質の高低や量の多少ではなく、差異と目新しさだけが人々の気を引き、売れ行きを決定する要素になるような思考様式、行動様式。

テレビ、あるいはもっと広く芸能界は、本来、歌が上手、下手、演技が上手、下手といった芸の優劣が評価の指標でなければならない。ところが、ナンシー関が暴き出すテレビ・タレントの世界は、芸の質などもはや問われない


生き残るための要件は、ほかのタレントと区別できる明確な差異があること。差異は、「天然ボケ」「ボケ」「ツッコミ」などの役割と、「アイドル系」「インテリ系」「舞台俳優系」など、容姿や出自が巧みに組み合わされて作り出される。そうして作り出された属性は「キャラ」と呼ばれる。一つの番組で似たような性質のタレントが複数いると、「キャラがかぶる」と嫌われ、一方は淘汰される。反対に、スキャンダルで一人が脱落すれば、似たような売り方で別の者が生き残ることもある。

芸能界という盤上で、タレントたちは「キャラ」を片手に、「ポジショニング」という名の居場所を争う椅子取りゲームをしているようなもの。もちろん、新しい「ポジション」が作り出されることもある。しかし、それを生み出すのは、やはり芸の質ではなく、他者との差異、目新しさだけ。


彼女のコラムは、椅子取りゲームの様子を面白く観察しているだけではない。タレントやプロダクションが狙うポジションと、実際にありつけるポジションはしばしば異なる。そうしたキャラ違いがもたらす悲劇的な滑稽さをナンシー関は見逃さない。

また、タレント自身はあるポジションにすっきり納まっているように装っていても、あまりに出来上がった枠にぴったり入っているのもかえって不自然で笑いを誘うし、実際は本人が思い込んでいる枠からはみ出しているような場合にも可笑しさがある。

用意されたキャラに合わない発言や、場違いなファッション、タレントが元々目指していたキャラとは不釣合いな出演番組を彼女のコラムは執拗に活写する。素材はほかにもある。決めに決めた二枚目が作る過剰な演出や、一流を気取る芸能人が思わずもらす素人のような一言や表情など。


ナンシー関は晩年、コラムの題材を政治やニュース報道へ展開しようとしていたという。これはナンシーの関心が広がったというより、政治や犯罪までもが差異と目新しさを媒介にしたマーケティング操作の対象となっているせいだろう。

差異と目新しさとは、鷲田清一が言うところのアヴァンギャルドとネオマニー。鷲田は、これらの概念をファッションの分野から派生し、社会全般にはびこる病理として分析する。ナンシー関が活躍した90年代は、アヴァンギャルドとネオマニーが社会の隅々まで行き渡った時代であり、テレビはその最先端であったと見ることもできる。


皮肉なのは、社会の隅々までが差異と目新しさだけで評価されはじめたとき、本来、差異と目新しさで評価されなければならないビジネス・マーケティングの世界は、まったく正反対に量と規模の大小だけで勝負がついていること。

一握りの企業や製品が高いシェアを獲得する「一人勝ち」、大企業による市場の独占、さらには大企業同士の巨大合併。こうした逆転現象は、素人とハプニングだけに頼るテレビ番組と、同じ工場で作られラベルだけが異なる「多品種」製品が並ぶ大型ショッピングセンターを生み出している。


ナンシー関に話を戻す。言うまでもなく、彼女がもつ最大の魅力は、芸能界の椅子取りゲームに現れる悲喜こもごもをユーモアあふれる独自の文体と、毒気漂う怪しげな肖像版画で書き上げた点にある。

しかも彼女は、コラムを書くためにテレビを見ているなどという言い訳はしない。それどころか、スナックをほおばりながらテレビを笑う自分に対しても、醒めたツッコミを入れることを忘れなかった。この点で、彼女は非常に優れた批評家であったといえる。

謹んでご冥福を祈る。


碧岡烏兎