烏兎の庭 第一部
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1.2.04

ナンシー関消しゴム版画、ボン研究所編、後藤明夫、布施英利解説、メディアファクトリー/ダ・ヴィンチ編集部、2003


長い休みには、長編小説や大部のノンフィクションなどを読んでみたい。けれども、冬休みは、人と会い、飲み食いする機会の多いときでもある。自分ひとりの時間は多くはないし、深刻な内容もできれば避けたい。そこで図書館で眺めるだけでも楽しめる図録評伝と呼べるような本をいくつか借りてきた。

冬休みは、ふだんあまり見なくなったテレビを、わいわい言いながら眺めるときでもある。みんな、ほろ酔い気分で好き勝手なことを言っている。ナンシー関のコラムもそんなテレビの前でのぼやきが出発点になっている。ところが、その邪悪さはただものではない。酒に酔っても、あるいは酒に酔ったくらいでは、あそこまで言う人はあまりいない。

ナンシー関が亡くなって一年以上が経つ。傑作コラムを集めた本も出版されているらしい。そちらは貸出中で版画集だけ借りてきた。文章も魅力的だけれど、彼女のコラムは速報性に最大の魅力があったことは否定できない。ワイド・ショー、ドラマ、バラエティ番組。見たばかりで自分もよく覚えている場面について、ナンシーは、気づいてもすぐ忘れてしまいそうな些細な点を、わざわざほじくりだしてツッコミを加える。

ふつうの人なら酔った勢いでつぶやくようなことを、彼女はあえて大真面目に文章にする。確かに覚えている。でもあの些細な発言をそこまで拡大解釈するか。彼女の文章にはそんな驚きがある。そういう文章をいま、まとめて読んでみても、『週刊文春』や『噂の真相』で読んでいたときのような爽快感は得られないような気がする。


文章も魅力的だけれど、ナンシー関といえば、やはり消しゴム版画。文章抜きで版画を眺めれば、文章を読む以上に量もこなせる。ただし、ここでも目が行くのは、版画じたいより、版画に添えられたひとこと。これを読んでいると、彼女が辛口コラムニストであると同時に、希代のコピー・ライター、見出し作家であったことがよくわかる。

あるタレントに対して視聴者がもつイメージは、タレントが意図しているものと同じとは限らない。むしろ、少しずれたところに視聴者のイメージは落ち着く。

そうしたずれは、キャラの似合わない番組や広告、迂闊なエピソード、そして予期せぬスキャンダルなどがつくる溝。あるいは、狙ったとおりのイメージを投影することができたとしても、そのイメージが、意図したとおりに受け止められるとも限らない。シリアスな演技が、大根役者を暴き出すこともあれば、素朴なコメントが庶民性を引き出すこともある。

ナンシーの文章は、そうしたずれを徹底的にかきむしる。版画に添えられた一言は、一言でその人物のキャラを見事に表わす。ナンシー以外ではできない際どい表現も少なくない。その意味では一発芸であり、同時に必殺の一撃でもある。

また、取り上げられる人物は、テレビ・タレントだけではなく、映画俳優、政治家、文化人から過去の文豪や哲学者まで幅広い。顔と名前が一致するか、一言で笑えるか、その出典を説明できるか、版画を見ながら考えてみると、いかに自分がムダな知識をもっているか、あるいはもっていないかがわかって、楽しかったり悔しかったりする。


優れた芸術家はみなどこか偏執的である、と聞いたことがある。その言葉はナンシー関にもあてはまる。水野晴郎、森繁久弥、桂歌丸、タモリ。気に入ったタレントは、何回も繰り返し彫っている。本書では、版画だけではなく、高校時代に初めて彫ったゴダイゴのロゴをはじめ、版木ならぬ版ゴムの写真も集められている。桂歌丸が12個並ぶ姿は壮観。

本書は、編集にも一工夫ある。別々なところで発表された矢追純一、立花隆、山本譲二、向井千秋を宇宙、UFOつながりで並べるなど、ナンシー作品の幅の広さ、ツッコミの面白さをあらためて体感できる。

ナンシー関が陣取っていた場所はいまも空席のまま。テレビの世界を映像と文章、おまけに一言のコピーで斬るような人はいない。どの雑誌も争うように似たコラムを掲載しているけれど、どれも似て非なるもの。最大の違いは、自分にツッコミできるかという点。

カッターと生きる

この言葉を添えた自画像で笑わせられるようでないと、ナンシー関を継ぐことはできない。


さくいん:ナンシー関


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