ザ・ベリー・ベスト・オブ「ナンシー関の小耳にはさもう」100、ナンシー関、朝日文庫編集部、朝日文庫、2003


ナンシー関は、雑誌の連載を仕事場にしていた。読む方では、毎週、あるいは毎月、テレビの出来事を辛辣に、同時に面白おかしく描いたコラムを読んでいたため、彼女のコラムは、よく言えば速報性に特徴があり、悪く言えば場当たり的な批評にも感じられていた。

今回、週刊朝日の連載から選ばれた作品を読んでみると、ナンシー関の主張は思っていたよりずっと一貫している。こういうことは連載時にばらばらで読んでいたときにはわかりにくい。とはいえ、あるべきテレビの世界、芸能人の世界は、コラムのなかで正面から語られてもいない。傑作コラムをまとめて読んでみると、コラージュを遠目で見るように、彼女の思想が浮かび上がってくる。

ナンシー関に一貫する主張は、芸とは何か、という問いに対する答えでもある。その答えとは、「芸」とは実像ではなく虚像ということ。

きっと昔から、芸能人の素顔を垣間見ることを世間は喜んだのだと思う。そしてそれは今でもそうである。「素顔」とか「本音」に対する絶対的な信仰はだんだん強固になってもいる。私は、つまらない実像を垣間見ることなど、特に芸能界においてはハナクソより意味がないと思う。つまらない実像よりも心躍る虚像を、と思ってみても、すでに虚像すら消失しているような気もするが。(「水前寺清子」)

自分の主張はあえて譲歩したまま流してしまうのは、ナンシー関の得意な文体。素顔や本音は芸ではない。芸とは、私生活の切り売りでもなければ、その場で気の利いた受け答えでもない。その場の思いつきではもちろんない。要するにテレビのなかのポジションや、キャラではない。「心躍る虚像」こそ、芸能。

もうそんな虚像はない。だから虚像をより美しくしようという切磋琢磨もない。あるのは実像と実像とがぶつかるバトルだけ。芸能人は、限られたキャラをひたすら奪い合う。視聴者は、そんなバトルを延々と見せられている。

芸能界も音楽界も次々と新しい人材が入ってくるのである。でもそのぶん、だれかが「界」を去るというわけでもなく、その累積人数は膨れ上がる一方だ。急にポンと現れたり、急にいなくなったり、あるいはじわりじわりとフレームから外れていくかのような消え方をしたりという「様子」を見ていると、何かイス取りゲームをしているようでもある。取りたいイスがどれであるかはいろいろだろうが、衆人環視のなか、尻を割り込ませたり、逆にはじき飛ばされたり、というバトル真っ最中にいる人たちは、そのイス取りの様子を見せることも「芸能(最近は音楽もだが)活動」のひとつということになっているのだから、日々是決戦に精を出すわけである。(「西城秀樹」)

テレビが恐ろしいのは、そこにもはや芸がないからではない。テレビの周辺までをもテレビ化していくから。ナンシーが追記している音楽だけではない。映画、演劇、文芸、報道、広い意味での論壇まで、最近ではキャラをめぐるイス取りゲームに見える。

何かしら事件が起きる。政治的な事件や社会的な事件、猟奇的な事件に微笑ましい事件。何が起きても、皆我先にと「コメント」する。そうしたコメントを羅列して特集にする雑誌もある。そこではコメントの中身より、どうコメントするか、それが他人とどう違うか、それだけが大事。

論壇の世界も、「心躍る虚像」ではなく、「つまらない実像」ばかり。誰もが論壇の中で何とか居場所を確保しようとイス取りバトルに狂奔している。そういえば、お笑い芸人が多数のゲストと丁々発止に下世話な会話をこなす「百人組手的なトーク番組」は、弁のたつ政治ジャーナリストが政治家から左右の論客までに満遍なく発言の機会をあたえる討論番組によく似ている。


ナンシーは、ときどき「降りてくる」、という表現を使う。ドラマや歌のように限定された仕事だけをする芸能人がバラエティ番組やトーク番組にでることや、自分がホストする番組にしか出なかった芸人が、格下の芸能人が司会する番組にゲスト出演することをいう。こういうことは、文章の世界や論壇にもあてはまる。

論文や小説しか書かなかった学者や作家が、週刊誌に書いたりテレビに出たりするようになる。いつの間にか専門分野や得意分野以外のことにもコメントするようになる。しまいにはコメンテーターとして政治から芸能まで何についてでも語りだす。

「語り」は虚像ではなく実像の世界の言葉。研究もなければ準備もいらない。ところが語っているほうは本音を吐き出すだけだから気持ちがいい。だからますます思いつきを語るようになる。

そんな誰にも聞かれることも納得されることもなかった「語り」が行き着く終着の浜辺みたいなところがあったら恐ろしい。でも、そうゆう所はなくて、「語り」のゴミたちは語った本人に戻って蓄積するのである。だから、誰も聞いちゃいなくても、語らせてはいけないのである。語った本人にだけそれは事実として積み重なり、次はもっとすごいことを語るのだ。これが増長のメカニズムかもしれない。(「神田うの」)

「増長」と聞いて思い当たる人が、芸能人以外にもたくさんいる。


ところで、数えきれないほど読んだナンシー関のコラムのうち、忘れられない作品が私には二本ある。確か、どちらも『噂の真相』に連載されたもの。一つは、珍しく芸能人以外の素人を題材にしている。一人の女性が新婚旅行先のオーストラリアで失踪した。この事件は胡桃沢耕史『翔んでる警視正』の一話にもなっている(「真夏の正月」『新世紀編1』、廣済堂、1994)。ナンシーは、件の夫婦がカメラ目線でワイドショーに出演したことに驚き、素人のタレント化と日常生活のテレビ化、すなわち人格のキャラクター化を激しい論調で非難していた。

もう一つは、『噂の真相』編集長を標的としたもの。人気女性コラムニストを肴にした前月号の匿名座談会で、自分のコラムが「もてない女性の憂さ晴らし」と揶揄されたナンシーは激怒して、翌月号で編集長を消しゴム版画にした。コラムの内容は詳しく覚えていないけれども、彼女が怒った理由は、自分までもが「つまらない実像」を売り物にしていると勘違いされたからではないだろうか。

ナンシー関は、自分が連載する雑誌以外ではほとんど仕事をしなかった。本書でも、コメントをとるだけの取材は絶対断っていると書き、「噂とコメントでページを埋めるのはやめたらどうか。」と誌面や番組の安易な制作に疑問を投げている(「木村拓哉」)。

つまり彼女自身は誰にも真似できない消しゴム版画と独特の文体で「心躍る虚像」を目指していた。ところが、案外身近なところにそう受け止めていない人がいた。


テレビ化は、テレビ以外の世界をテレビ化するだけではない。真摯に「心躍る虚像」を目指す人まで、テレビの住人の一人にしてしまう。そこが恐ろしい。自分の仕事を究めようとしたナンシー関でさえ、今でいう「負け犬」キャラの一人に数えられる危険がある。実際、ナンシー亡きあと、彼女の意気込みを見習おうとするのではなく、彼女が占めていたポジションの後釜を狙う亜流が後を絶たない。

テレビと芸能界はイス取りゲームになっている。文壇はアイドル業界に、そして論壇は「踊る御殿」と化している。「心躍る虚像」を見せてくれる場所は、もうないのだろうか。

身近なところで思いつくのは、ラジオ

時代遅れのメディアであるだけに、ラジオにはテレビ化を受けつけない何かがある。テレビで目立っている人でも、ラジオではそれほど目立たないことがある。テレビの世界では真実と虚偽が逆転している。「実像=本音」を「虚像=芸能」として見せる。ところが声しか聞こえないラジオは、皮肉なことに実像に被せた虚像が透けずに見える。すると虚像がしっかりしていないタレントは、何も見せるものがない。

ラジオでは、テレビを活動の中心にするタレントがしっくりしないで、浮いているような印象を受けることがある。理由はよくわからない。私がラジオ好きなせいかもしれない。ラジオは対象範囲がきわめて狭いメディア。そこだけでもテレビとは大きな違いがある。

だからテレビで映える人、ラジオで映える人、という区別はあるように思う。ラジオ出身でテレビでも人気者になった人は、ラジオに戻るともう以前の魅力を失っていることがある。そういうことを考えると、タモリについての次のような分析は興味深い。

たとえば、年間のテレビ出演時間を集計すると、タモリよりも長時間の人もいるかと思うが、タモリのテレビとの関係性はちょっと特殊なもののように思える。出ても何もカウントされない、というか、積み重ならないという感じだろうか。逆に言うと、出なくなっても何もマイナスされないんだが。

タモリはラジオから出発した人。確かにテレビでも長寿番組をもってはいるけれども、ナンシーによれば、何年たってもテレビでは存在感が薄い。それはタモリが生来ラジオ人だからではないだろうか。

タモリは、今でもプロ野球のない季節にラジオ番組をもっている。私には、テレビよりそちらのほうがずっと面白い。テレビに出ても影が薄い。いくら出ても存在が積み重ならない。それでいてラジオにはずっと存在感が残っている。

それは芸の優劣ではないし、ましてやキャラの問題ではない。「心躍る虚像」の見せ方、すなわちスタイルの問題だと思う。


碧岡烏兎