シベリア超特急、ウィズダム、1996


監督:Mike Mizno、製作、原作、脚本:水野晴郎

出演:水野晴郎、かたせ梨乃、菊池孝典、西田和晃、占野しげる、ほか


例年、心理状態が季節によって変わる。2月、3月は寒さと花粉症で浮かない気分。4月、5月の初めは晴れやかで、少し高揚した気分。それがだんだん沈みがちになり、酒量が増えてくる。肩腰が痛くなり、しばらく遠ざかっていた接骨院にまた通い出す

こうした気持ちの動きは、書いた文章を読み返すとなおよくわかる。文章を書くようになって気持ちの動きがかえって表に出やすくなっているかもしれない。もっとも、それは文章の表であって、生活の表からは見えにくくなっている。文章を書く効用といえそう。

文章だけでなく、気分の浮き沈みは読書にもあらわれる。朗らかで穏やかな気持ちの季節には、読書がすすむ。たくさん読み、知らなかった作家や、未知の分野も読みはじめる。

調子にのると、手を出しあぐねていた本に手を出したり、偶然、重い作品を手にとってしまう。それが季節の変わり目に重なると、たちまちどんよりしてくる。そうして、沈んだ気分を吹き飛ばすために、お笑いやトンデモ系の作品で気を紛らわそうとしてみる。ここ何年か同じことを繰り返している

レンタル店の半額キャンペーンに乗じて、『シベ超』を借りてきたのは、まさにじめじめした気分を吹き飛ばすため。みうらじゅんがラジオ「吉田照美のやる気まんまん」の中でこの映画について盛んに話すのを、外回りが多かった頃よく聴いていた。見れば期待を裏切らず、確かに笑える。ここで止めておけばいいものを、いつもの癖で、なぜ可笑しいのか、少し考えてみた。

『シベ超』の可笑しさの原因は、一種のカタルシスにあるのではないか。脚本、演技、撮影、編集、そしてセット、どれをとっても粗雑で稚拙。見ているほうは、損をしたくないからか、作り手への情けからか、無理をしてでも感情移入して作品世界に入り込もうとする。ところが、「けっしてお友達には話さないでください」と念押しされる結末後の結末では、その作品世界は作り手によってぶち壊される。

見ているほうは、お情けのつもりで入り込んでいた作品世界に自分がいつの間にか取り込まれていたことを知る。そのとき、これまたちゃちな仕掛けでその世界をあっさり壊してしまう水野晴朗の世界に取り込まれていることを二重に思い知らされる。

ビデオの箱には、「人生の見方を変える結末」と書かれている。人生はやや大げさとしても、映画の見方を変えられた人は少なくないだろう。

この二重の結末は、とくに映画好きには評判が悪い。こういう作品の外側から作品を見る手法は映画では珍しいのだろうか。本の場合、物語なのか作者の実体験なのか、その境目がはっきりしない小説は少なくない。マンガではさらに、作者が登場人物と話したり、描いているペン先が描かれていることもある。そういう作品をいくつか見たことがあるせいか、『シベ超』の二回ひねりにも、それほど驚かなかった。

もともと映画は苦手。時間があるときは、本や絵本を選ぶ。映画ならアニメやミュージカルのほうが好き。それはきっと、嘘であることがはっきりわかっているから。どんなによくできた話でも、結局本は文字でしかない、絵本やアニメは絵でしかない。それに内心気づいているから、作品世界に取り込まれても、戻ってくることは比較的やさいい。

映画は、少し違う。臨場感の度合いがはるかに高い。裏を返せば、あまりにも本物のように見えるため、見ている自分がどこにいるのか、どういう存在なのか、わからなくて不安になってくる。

宇宙空間、戦場、はるか昔の外国や未来の街、恋人たちの寝室。実際には行けない場所や、ほかの誰もいないはずの空間を、あたかもその場にいるかのように見ている自分は何か。眼だけがその場を漂っているような感じ。

だから、映画が終わると、このあとはどうなったのか、気になる。感情移入した俳優がまったく違う役柄でほかの作品にでていると戸惑う。

映画が好きな人は、こういう見方はしないだろう。適度に作品世界に没入しながら、適度に作品を外から見る自分を残しているに違いない。上手な演技だな、気の利いた台詞だな、新しい撮り方だな。そういう見方が、私はほとんどできない。本や絵本では、言葉一つの扱いも気になるのに。

その点、『シベ超』は安心して見ていられる。これは、誰かが演技したものを撮影したものでしかない。言ってみれば、舞台を撮影したようなもの。車内がまったく振動していないのも、走る列車が風を切っていないことも、舞台の上と思えば不思議はない。映画好きな人は、臨場感を重視するから、こういう表現は我慢ならないのかもしれない。

確かに映画が本や芝居など他の表現と大きく違うのは、臨場感であることは間違いない。しかし『シベ超』は、映画といえども、結局のところ、作品世界にどれだけ見る者を引き込めるか、その世界がどれだけ個性的であるかというところに本質があり、演技も撮影もそれを支える技術にすぎないことを明らかにしている。もっとも『シベ超』の場合、意図したものではなく、意図せず壊れているアンバランスに面白がさあることも事実。

ナィーブ・アートといったら少し上品すぎるか。マンガでいう「ヘタウマ」のような面白さ。

作品世界は、いまの日本語では「ワールド」と片仮名書きされる。『シベ超』は、水野晴朗ワールド。ほかの誰にもできない、多くの人を引き込んで離さない、一つの独立した世界。

作品世界は、どのように出来上がるのだろうか。筋書きのメリハリや、演技や撮影の技術の確かさではない。そうかといって、作り手の思いの深さだけでもないように思う。むしろ『シベ超』では、「戦争反対」という水野の思いは、稚拙な表現によって空回りしてマイナス側に増幅されている。それが見る側に、ここまでして伝えたい水野の戦争体験とは、どのようなものだったのだろうと考えさせる。マイナスのマイナスがプラスになって見る側に残る。笑いのあとのかすかな余韻。

一つ、水野の意図で明快なことがある。それはA級戦犯となった山下奉文を主人公にすえ、彼を戦争の遂行者としてではなく平和の探求者として描くこと。自虐史観ではないけれども、祖国礼賛でもない。この複眼的、もしくは両義的ともいえる戦争観が、水野の意図が一途でありながらも一本調子にならず、粗忽な仕上がりと相まって作品に独特の雰囲気をもたらしている。とはいえ、彼がどこまで意識しているかはまったく不明。

マイク水野にこんな映画を作らせてしまったのも、戦争の災厄の一つかもしれない。

映画評論家として映画を外から見てきた人が、映画を作る側に深く入れば入るほど、かえって映画を映画らしくないものにしてしまう。これは皮肉な逆説か、それとも当然の帰着なのか。映画の見方も知らない私には、わからない。