丸山眞男と小林秀雄――「思い出」と「伝統」についての覚書


共通点と相互批判

丸山眞男と小林秀雄。手元にある『常用国語便覧』(第四版、浜島書店、出版年は不明。おそらく1980年前後)は、二人を戦後の代表的な評論家として名前を挙げている。小林は1902年生れ、仏文学科卒業で文芸批評。丸山は、ひとまわり若く1949年生れ、法学部卒業、日本政治思想史を研究しながらの社会批評。

出自と方法は異なるものの、二人には多くの共通要素もある。福沢諭吉、本居宣長、荻生徂徠、クラシック音楽、ドストエフスキーと、枚挙にいとまがない。二人はまた座談、対談の名手としても知られているけれども、小林は、創元社と新潮社、丸山の方は、未来社とみすず書房と岩波書店という具合に、執筆の拠点とした出版社が異なる。そのせいか、対談は行われていない。

丸山は『日本の思想』「Ⅱ 近代日本の思想と文学」で、マルクス主義の洗礼を批判的に受け止めたはずの小林が、結局ファシズムを追認し、「葉隠」の世界へ遁走したと批判している。これに対して小林は、戦後幾度となく「反省するやつは反省しろ。僕は反省しない。」という反語によって丸山に代表されるいわゆる「進歩的文化人」を反批判した。小林にしてみれば、同じ臣民として戦争を体験したはずの人たちが、後知恵によって戦後突然にファシズム批判を展開することに不満があったのだろう。二人の対談が行われなかった背景には、互いに向けられた批判的な視線があったとみても間違いではないだろう。

確かに丸山は戦前の小林を決断主義として批判した。それでも戦後の作品とあわせて、小林秀雄という文学者に一目置いていたことは、『日本の思想』の「あとがき」から充分にうかがわれる。

   いくら私が文学に無智でも、二、三の批評がいうように「感覚的に触れられる狭い日常的現実にとじこもる」代表として小林氏をあげるほど盲目ではないつもりである。念のためその箇所をひくならば、「文学的実感は、この後者の世界においてか、さもなければ絶対的な自我が時空を超えて瞬間的にきらめく真実の光を『自由』な直観で掴むときだけに満足される」と書いたのであって、狭い日常的現実にとじこもる実感主義(いうまでもなく日本の自然主義に代表される)と質を異にした実感があると思えばこそ、「さもなければ」以下の言葉を入れたのである。小林氏は思想の抽象性ということの意味を文学者の立場で理解した数少ない一人であり、私としては実感信仰の一般的類型としてではなく、ある極限形態として小林氏を引用したつもりだった。

この部分は、丸山の文学観がよく表現されたうえで、小林に対する賛辞となっている。丸山は小林の作品に直接、触れていたに違いない。


「思い出」と「伝統」

丸山が小林を読んでいた証拠になると思われるのは、「思い出」という概念である。これは「日本の思想」で申告されているとおり、丸山が小林から借用した概念である。ただし、丸山ほどの精緻な読み手にしては珍しいことに、丸山において「思い出」が意味するところは、小林のそれとはかなり違う。丸山が意図的に読みかえているのか、それはわからない。

小林にとって「思い出」は、現在から過去に引かれた延長線上に存在する。過去は現在という地点からしか観察することはできないという主張が、小林における「思い出」の根幹である。ここでは、観察者の現在性と主体性に力点が置かれている。対して丸山の言う「思い出」は、過去の事象や思想が脈絡なく、唐突に現在に蘇ることである。だから「思い出」は突発的に「噴出」する。

ところでもう一つ、二人が好んで用いる言葉に「伝統」がある。「伝統」という概念は、それぞれで「思い出」と密接な関連がある。小林における「伝統」は、無自覚的、超越的、外在的である。だからこそ「伝統」は批評の対象となる。対して丸山の「伝統」観は、まるきり正反対。「伝統」は、自覚的で、過去の遺産から自我のなかへ主体的に抽出される。その方法はきわめて学問的である。

「思い出」と「伝統」は、二人の間でちょうど対称的な構図をなしている。小林にとっては、「伝統」という遠い存在を自覚的に「思い出す」ことが批評だといえる。丸山にとっては、あぶくのように噴出する「思い出」のなかから「伝統」に値するものを主体的に選択することが思想史研究ということになるのだろう。いずれにおいても「思い出」は二次的であり、「伝統」に高い価値が置かれている。この共通性は重要である。


敗戦に対する態度

思い切って図式化すると、丸山は開国から敗戦までを失敗の歴史とみている。開国以来、外来思想と土着風土との融合ができず、その混沌からファシズムが生れたと彼はみる。その理由は、土着の思想的風土には、キリスト教やマルクス主義のように強力で統一的な歴史観、社会観をもった伝統がなかったからである。

まったくなかったというのではない。社会の傍流や周辺には、そうした思想もあったと丸山は考える。だから敗戦の荒廃から立ち上がり、今度こそファシズムを克服した民主主義を日本国に確立するために、過去の隠れた伝統を掘り起こすことが、彼の専攻する日本思想史の役割となる。ないわけではないが、今は見えない「日本の伝統」を見出すことが、丸山思想史の使命である。

一方、小林において「伝統」はすでにある。誰でも心に静かに尋ねれば「日本の伝統」が思い出されてくるはずだと小林は考える。ただし「伝統」を構成する諸要素は、政治や権力によって歪曲されている。だから、疑うこと、すなわち批評によって、そのような歪曲を取り除いていくことが「伝統の継承」になる。「伝統」は発見されるものではなく、確認されるものである。

このような相違を、二人のファシズムに対する態度に起因すると見ても的外れではないだろう。丸山は、戦中からファシズム批判を開始し、戦後はファシズムを生み出した日本社会の無責任構造を徹底的に批判した。小林は、むしろ丸山によって批判されるような無意識のうちにファシズムを担ってしまった一人である。彼が戦中に書いた文章は無批判な愛国心に溢れ、戦争を賛美し、大本営発表を鵜呑みにしたものもある。

ただし、小林は敗戦後、転向することはなかった。自分の過去を肯定することも言い訳することもなかった。敗戦後の自分から過去を振り返り、自分自身に一貫している精神を孤独に探求した。そして、戦争中は口をつぐんでいたのに、終わったとたんに自分が従っていた体制を批判しだした自称知識人たちを小林は非難した。丸山もその一人に数えられていたかもしれない。

丸山のファシズム批判は学問的で客観的である一方、外在的でもある。小林が戦後に書いた批評は文学的で内省的である。小林が無自覚にファシズムに没したという批判が成り立つならば、丸山はファシズムを生き伸びた自覚が足りないという批判も成り立つのではないだろうか。


「日本の伝統」と職業的責任感

すでに明らかなように、まったく接近法が異なる二人には、「日本の伝統」という共通項がある。丸山は発見し、小林は確認する。二人は、互いに批判するような反対の立場でありながら、異なる経路を通って同じ場所へ向かっていった。そして「日本の伝統」を象徴する人物として二人が共通して傾倒するのが、荻生徂徠であり、本居宣長であり、福沢諭吉である。丸山は、伝統を発見することができた日本人として彼らをみるだろう。一方、小林にとっては、日本の伝統を受け継ぐことのできる批評精神の持ち主と映るのだろう。

伝統の発見と確認。それができる日本人。言葉をかえれば、日本人の内面における絶対的主体の確立。二人に共通している問題意識はそう表現できるのではないだろうか。このような問題意識をもったのは、言うまでもなく、敗戦によってもたらされた政治、社会、人心の荒廃が目前にあったからだろう。

丸山と小林がめざしたのは、荒廃する敗戦後の日本国民の心に「日本の伝統」を通じて「絶対的主体」を確立し、今度こそファシズムを克服した民主的文化的国家を建設することであった。彼らの意図は日本国民であるという自負と、研究者、文学者という職業に対する責任感によって支えられていた。だからこそ、一見幅広く活動していたように見えても、思想史と文芸批評という己の持ち場からほとんど離れることがない。

職業に責任感をもつことはいいことに違いない。卑下した気持ちでいやいやするより、前向きに取り組むことは仕事にとって大切なことだ。しかし、その責任感が本来、個人にとって内面的な行為である思想や文学を規定、制約する危険があることも否めないのではないだろうか。別な言葉で表現すれば、職業と思想が同じ責任感によって結び付けられたとき、思想が本来、より強いつながりをもっているべき生活から離れていってしまう懸念がある。

そうした事態を避けるためには、ひとまず職業に対する責任感と思想表現に対する責任感を注意深く分けておく必要があるのではないだろうか。これは、職業を単なる金儲けと割り切ることではない。職業と思想をひとまず切り分け、思想を生活の領域へ戻すことであり、そこから内面的な思想表現として職業を見直すことである。

同じことが国籍についても言える。日本国民、あるいはより単純に日本人であることに自負を持つこと自体は悪いことではない。そうであっても今日、日本という概念を自明のものとしてとらえたり、単一的な文化ととらえたりすることは、多面的な文化と、そうした文化に育まれた複合的な自己という存在のありかたを見誤らせることになることを忘れてはなるまい。


意義

今日、いわゆるグローバル時代と言われる世界において、「日本の伝統」を議論する意味はどこにあるだろうか。もはや「日本人」というアイデンティティを、無自覚、無批判にもつことはできない。また「絶対的主体」も、大衆化、技術革新、商業主義、グローバリズムなどの荒波を受けて危機に瀕している。

そうした時代に「伝統」を模索した丸山や小林を読む意義はどこにあるのだろうか。確かに丸山や小林のような、いわゆる知の巨人と呼ばれる人たちを読むことには、さまざまな意味で刺激になる。卓抜な発想、明晰な文章、もちろん周囲から得た賞賛も含めて、彼らは一種の憧れの対象にさえなる。憧れは学びの契機ともなるが、同時に少しの読書だけで自分を彼らと同じ思想をもつ人間と思い込んだり、方法だけをまねして彼らを単なる偶像としたりすれば、身の程知らずの過大な自己評価に陥る可能性も含んでいる。

憧れを偶像化に終わらせず、学ぶ契機とするためには、彼らが用いた方法で彼らと対決するしかない。時代も環境も立場も異なる彼らの方法を真似して、同じ対象へ向かってみても多くは得られまい。あるいは、斜に構えて無視を決め込んだり、彼らを囲んだ歴史的制約をあげつらったりしたところで、彼らの提示した問題はいつまでも残る。つまり、思想史によって丸山を、批評によって小林を批判しなければ、彼らを越えることも、彼らの偉業を受け継ぐこともできない。

丸山や小林と対決するためには、まず彼らの用いた手法をよく知る必要がある。彼らの方法には、共通する点が二つある。一つは、歴史に現在と未来をつくる手がかりを探るということである。彼らはいずれも過去の書物や行動を過去のある時点の思想が表出した資料ではなく、現在にまで続く無形の遺産と考える。思想や政治的行動は、書物や歴史的事実として受け継がれるのではなく、人間の内面に精神として継承されるという考え方である。

この考え方は、過去から現代に活用できる要素を直接引き出すということではない。過去と現在との違いをつきつめて理解して、はじめて過去を遺産として現代に適用できるのである。丸山ならば「読み替える」、小林ならば「疑う」という行為は、そのように理解するべきだろう。いずれにとっても「伝統」はひとりでに現れるものではない。主体的な関わりなくして、遺産は「伝統」として継承されないのである。

もう一つ、二人に共通するのは、現状を悲観的に把握するということである。かがみこんでより高く飛躍することをめざすように、現実を絶望的に把握することで、二人の思想は出発点と進行方向を明確にするという効果を得ている。ただし、二人は現状を悲観的に把握するだけでなく、そこから出発する姿にも悲壮感があふれている。絶望的ではないにしても、この道を進まねばならないと気負う求道的な姿勢が強い。別な観点からみると、彼らは一途であるばかりに、自分の姿を客観的に省みる場面があまり多くない。

さらにいえば韜晦をこめて自分を見据えることもほとんどない。先に書いた高い職業的な責任感ともあいまって、それだけ問題意識が切実であったと見るべきだとしても、このような姿勢は多くの支持者を生むと同時に、彼らを何となく近寄り難い存在にしているし、また偶像性を生み出す根源にもなっている。

結局、丸山眞男と小林秀雄は、きわめて似通った問題意識を持ちながらも、まったく異なる分野で異なる接近法を採用した。そして二人は対談することも、相手を肯定的に引照することもなかった。自分の活動領域と方法論に対する強い自覚と責任感が、かえって二人の交流を阻んでいたように思われてならない。現状を憂い、未来を模索しようとする者にとっては、彼らが培った方法論から学ぶところは少なくないだろう。


対決

今一度、丸山と小林の思想を「伝統」として継承するために、二人が強く意識した「日本」、「日本人」という概念について、彼らと対決を試みる。まず、丸山と対決するためには、次のように問うことができるだろう。日本という概念はつねに単一的、統一的なものだったのか、日本の伝統にむしろ非日本的なものはなかったのか、日本を捨てた、あるいは日本人を超えた日本人はいなかったのか。

小林に対しても、すべてを疑う批評を標榜するのなら、日本人であることまでも疑わなければ、伝統の真の姿は見出すことはできないはずだ、と問えるだろう。

もう一つの共通項である絶対的主体について言えば、主体は絶対的とみなすことはもはやできない。私という個人の存在は日本文化という単一の要素によって規定されているわけではないからである。学校で学んだこと、テレビで見たこと、日本で身につけたこと、外国で見知ったこと。そうしたものが複雑にまざりあって私という存在を作り出している。

また、そうして私を作り出している構成要素もそれぞれさらに細分化された諸要素がからみあって形成されていることも見逃してはならない。私という存在は多面的、重層的であり、その私を構成する日本文化も多面的で重層的なのである。こうした関係性のうえに存在する主体という理解をもつことは、私をつねに不安定な自己理解へ陥れる危険をもつが、同時に職業や国籍によって私が過度に制約されることを相対化する効果も期待できるのではないだろうか。

丸山は「『である』ことと『する』こと」を、教養あるいは精神的貴族主義と民主主義の徹底を訴えた後、「トーマス・マンの描くカール・マルクスがフリードリッヒ・ヘルダーリンを読む世界」という言葉で結んでいる。私が今書いている八千字足らずの無謀な試みは「職業的な思想史研究とも文学とも程遠いど素人が心に描く丸山眞男と小林秀雄とが対談する世界」と言えるかもしれない。


宣言

丸山眞男と小林秀雄を規定していた「日本人」という自意識と職業的責任感の問題点を理解した今、私に必要なことは、まず思想や表現を職業や国籍、国民性などの属性や集団の一員としての責任感から一時的に切り離し、純粋に個人の内面的な精神活動としてとらえなおすことである。言い換えれば、組織や集団から切り離した自然状態におけるような私個人を想定しなおすことである。

ホッブズは自然状態を「万人による万人に対する闘争」と表現した。そして、生命を互いに危険にさらすことを避けて、人々は政治権力を設け、自由の一部を割譲した、とホッブズは説く。ところが、設置された政治権力が一部どころか、自由のすべてを奪い、人間性の根幹まで破壊するさまは前世紀に嫌になるほど見せつけられた。

今や自然状態に戻るべきではないか。いや、すでに世界は戻りつつある。ホッブズの自然状態では、もっとも弱い者が一撃でもっとも強い者の命を奪うことができる。まさしく、たった数人の戦闘的行為によって超大国の政治経済の機能が麻痺させられる事態が、あの九月十一日に、もっともむごい姿でさらされたのではなかったか。

私もまた日々戦っている。ただし、私にとって戦いの目的は世界を恐怖に陥れることではない。この戦いは、主体である私個人と、私を私たらしめている関係性を形作る諸要素を守る戦いである。簡単に言えば、私と私が大切にしているものを守る戦いである。

大学や研究機関に籍を置く研究者を知の常備軍とすれば、職業的文学者は知の遊撃軍といえるだろう。ならば私のような素人表現者は、知の民兵であり、知のゲリラという気概をもつぐらい構わないだろう。素人表現者が表現できる舞台は、いうまでもなくインターネット上である。言い換えれば、個人のウエブサイトは、自分と自分が大切に思うものを守る戦いを可能にする武器となる。また、インターネットは情報を収集、閲覧するだけではなく、発信してこそ、使ったことになると言っても過言ではない。

ネット表現者は、報酬のために表現するのではない。自分と自分が大切にするもの、自分が愛するもの、自分が好むもののために表現する。従って、その表現方法も表現内容も諸個人のスタイルの数だけ、多種多様である。学問的なものもあれば、文学的なものもあるだろう。批評的なものもあれば、エロ・グロ・ナンセンスもあるに違いない。題材、方法は違っていても、それらの表現には一つだけ共通することがある。それは、どれだけ多くのリンクを張ろうとも、掲示板で対話を深めようとも、表現そのものは孤独な営みだということである。

他人の表現はともかく、私が表現する内容と方法は、ウエブサイトで披露され展開されるから、ここで能書きを掲げることはない。一言すれば、私がこれまで知的関心をもってきた分野は、思想史と文学であるから、この文章を踏まえて、丸山と小林との対決を続けていきたい。

少し気張って書いたついでに、思想史において、国籍や職業ではなく、何より思想そのものに対する責任感ではほとんど誰も及ばないと思われる人の言葉をもじって締めくくることにする。

万国の素人よ、孤りでやれ!

オレも独りで書く!


碧岡烏兎