土を掘る 烏兎の庭 第三部
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8.26.06

森有正エッセー集成 索引について


2003年、一年かけて森有正『エッセー集成』を読んだ。その前年に読んだ『小林秀雄全集』に続き、大袈裟でなく、自分の考え方も生き方も変える契機となるような読書体験だった。

森有正の文章には、同じ言葉が繰り返して登場し、登場するたびにその重みを増していく。そうして言葉が磨き上げられ、硬質な文章が築かれ、伽藍のような広大な思想に広がっていく。ある言葉を、森がどのような文脈で使っているかを知ることは、森有正の思想を理解するために非常に重要なこと。

そこで、『森有正エッセー集成』(全5巻、ちくま学芸文庫、1999)の索引を作りはじめた。以下、索引つくりを思い立つまでのこと。

毎年、5月の連休明けから7月の中ごろまで、気分がすぐれない。頭の上の、ちょうど河童の皿にあたる部分が重くなる。梅雨のせいもある。気温が上がり、日差しがまぶしくなると、気分が変わる。毎晩ジンを飲んでいたのが、週末にビールを飲む程度になる。

夏になり、振りかえってみると、毎年同じことを繰り返していることに気づく。ところが、渦中にいると気づかない。ずっとずっと沈んだ気持ちが続くような気がしてしまう。

宗教学者や哲学者は、人生の真実は「過去」と「未来」をつつみこんだ「現在」にあるという。彼らが言う「全時的今」「永遠の今」といった言葉が、矛盾を含みながらも示そうとしている何かはわからないではない。でも、同じ状態は精神的な昂揚感だけではなく、まったく正反対の状態にも当てはまることについ最近になり気づいた。その違いはどこにあるのか、まだよくわからない。

おそらく、永遠でありながらも、終わりに向かっている不可逆的で不可避的なところにヒントがある。そこに矛盾を含んだ存在や宿命といった人間の意味があると思う。

憂鬱な気分になっても、夜、眠れないことは少ない。でも、朝が来るのはやはり怖い。それは、何かが起こりそうだからではない。何も起こらないような気がするから。今日と同じような一日がまた来る。それが嫌なくせに、結局、同じように毎日を過ごしてしまう。明日も今日と同じと歌う、“Tomorrow Is Today”を繰り返して聴く。


何もしたくない気分を変えるために、あれこれ試してみる。笑える本を読んだり、カルト映画を見たり。今年は、ドジ話、バカ話の傑作集『宮川賢のパカパカ行進曲!!(1) 』『(2)』(興陽館、2006)を買って繰り返し聴いた。懐かしいバカ、ほろ苦いバカ、人生の肥やしになったバカ。聴いていると、スカッとして一服の清涼剤になる。

そのすがすがしさは、宮川が言うような「自分よりバカな奴がラジオで喋ってる」という優越感とは違う気がする。そこまで考ることもない。バカっぽい高笑いが妙に心地よい。バカっぽい、とは、宮川によれば最高のほめ言葉。

考えはじめると、こういうときはおかしな方向に思考は進む。これほどバカなことをしでかした人たちでも、それをラジオに出て話そうというのは勇気があるし、しかも面白おかしく話せるのだから立派なことではないか。もちろん、面白おかしく話しているのは、聞き出している宮川の絶妙な相槌によるところが大きい。

それはともかく、自分のバカさ加減をラジオで披露しようという思い切りのよささえない自分は……。そんな風に考えていると、笑える番組も笑えなくなってしまう。

何も考えずに笑っていられる。それこそが、バカの効用というものだろう。


美術館も、この季節に行くことが多いルオーラ・トゥール手代木克信を知ったのもこの季節。

今年は府中美術館『アートとともに―寺田小太郎コレクション』を見に行った。とくに目当てがあったわけではない。ふらりと行ってみた。企画展で相笠昌義を知った。冬の駅にたたずむ男、夏の終わり、ソファに横たわる女。孤立感と倦怠感。公園に集まった家族連れも満足そうな顔をしていない。明朗快活な絵より、こんな気分にはこんな絵のほうが波長が合う。マイナスにはマイナスをかけたほうがいい。

常設展の小特集は「少女」。注目したのは、青木繁、松本俊介、長谷川利行。どれも少女の姿形はほとんど無視して、内に潜むものやそこから生れる動きを直接つかみとり生々しいまま画板に投げつけている。

長谷川利行「カフェの入口」も行くたびに前に立つ絵。今回は資料室で画集を眺めた。形や技法さえも気にしない。自分が見つけた対象の本質を鷲づかみにする力技。

もう一つの常設展は、牛島憲之記念室。毎回、少しずつ展示が入れ替わる。今回は「牛島憲之の足跡」。牛島の場合は、対象の観察、内面での消化、全体の構成、素材と技法、段取りと仕上げ、すべてがじっくり練り上げられていることがわかる。作品を見ていると、滔々と流れる時間に吸い込まれるような気がする。

来るたびに牛島の絵を好きになっていく。本邦初公開の特別展もいいけれど、いつもそこにある、行きつけの美術館というのもいい。落ち着いた自分を取り戻せる気がする。


梅雨のさなか、雨のそぼ降る日曜日、東京の青山でEarl Klughの演奏を聴いた。彼の演奏を生で聴くのは、もちろん初めて。有名なライブ・ハウスにも初めて入った。

店内は恐れていたほど大きくない。横長なので、最後列からもステージがよく見える。左手にキーボード、中央右にベース、右手にドラム。ステージは客席よりすこし高くなっていて、ギタリストの全身が見える。

フュージョンよりはジャズ寄りの選曲。楽しみにしていたのは、新しいアルバムのソロ・ギター。一人で演奏するときには、バンドは下がるものと思っていると、バンドはそのまま舞台に残り何の前触れもなく“Angelina”がはじまった。

はじまりはさり気なく。Earlはときどき目を閉じ、身体をゆっくり揺らしながら、造作なく弾く。曲名を思い出す間もなく、音楽は身体のなかに注ぎ込まれていく。

作曲も練習もなく、まるでいま思いついたように音楽が流れていく。終わりも、次第に音が減り、ギターの微かな音で消えていく。客席も息を呑み最後の音を待っていた。

フュージョン系では“Heart String”、賑やかな締めくくりは、ライブ・ビデオでも演奏していた“Wind and the Sea”。音楽に酔いしれるひとときを過ごした。

あれから、まだ何日かしかたっていないのに、あの日のギターの色も、ビールの味も、もう忘れてしまった。でも、あの日のことは、忘れていない。そういう不思議なことがあることを知った。

もともと一つ一つの出来事を覚えていたわけではない。静かにギターの音色だけが、心の奥に、山奥につくられた人造湖の底まで、遥か彼方からの宇宙線が降り注ぐように沁み込んでいった

言葉や景色をはっきりと覚えている出来事が、自分をつくっているのではない。こんな風に、何もかも忘れているのに、忘れられないでいる出来事が、私という一人の人間をつくっている。そういうことも、わかってきた。

「私」という何者かが存在する前から何かを感じている。何かが感じられている。私が感じているのではない。感じている何かが私をつくる


帰りの電車。読みかけの佐古純一郎『森有正の日記』(1986、朝文社、1995)を開く。図書館で偶然手にした本。

森有正の索引を作ろう。そう思いついたのは、この本の一章、「定義について」を読みはじめたとき。何かをはじめることを決めたら、急に晴れやかな気持ちになってきた。

森有正の書いた文章は読んでも、彼について書かれた文章は、彼を知るきっかけになった辻邦生随筆以外、まったく読んでいない。森有正の言葉には、辻がヨーロッパ、フランス、ギリシアを直に感じたように、直に触れたい。森の読者には、そう思う人が多いだろう。この本も、図書館で背表紙を目にしてはいたものの、手に取ることはなかった。

この本は、森有正について論じたというより、「日本」「促し」「信仰」など、森の思想の鍵となる概念ごとに森の日記から言葉を集めたアンソロジーに近い。もちろん、佐古の感想や、森との個人的な交流も書かれてはいる。

名言集、名句集という本は少なくない。森有正では、「定義とは」「愛とは」とはじまり、概念を定義する文が多いので、なおさら、彼の考えは事項や概念ごとに整理して読めばよくわかるかもしれない。

ところが、そうした体裁をもつ『森有正の日記』を読んでも、元の文章を読んだときの感動はいまひとつ得られない。冗長なことも、森のスタイルの魅力。断章として読むと、思索のうねりや積み重なりをあまり感じられない。思索と定義を重ねる一文一文と聳え立つような全体。一方を抜きにして他方はない。

森有正の文章は、言ってみれば断章的散文。水が流れていくように物語が語られる辻邦生の文章とは性質が異なる。こちらは、叙事詩的散文。部分だけを断章として取り出して読むと、魅力が半減することはどちらも同じ。


辻邦生の散文が清流とすれば、森有正の散文は城壁。重くて堅い岩石がぴったりと積み重ねられている。一つ一つの岩にも趣きはあるけれど、それだけ見ても壁としても景観としても、機能は果たせず、魅力に欠ける。

森有正の文章は、事項と概念を整理しながら、原文の流れに身を置いて読んだ方がいい。それには、人名や地名、語彙を整理した索引が役に立つことだろう。「経験」という言葉一つみても、索引を頼りに読めば、いつ最初に使われ、どのようにして概念としての重みを増していったか、よくわかるに違いない。

森自身も、『バビロンの流れのほとりにて』の索引をつくるつもりでいた。このことは、佐古も書いている。


佐古も引用している辻邦生「先生とプラトンと索引と」(『森有正 感覚のめざすもの』)によれば、森有正は冗談めかして話しながらも、索引については真剣に考えていた。

「ええ、索引です。たとえば<経験>という項目を引くと、ぼくがあの本のなかで触れた<経験>のさまざまな形が、はっきり浮かびあがるわけだし、<海>とか<嵐>とか、何気なく使ったものでも、そうやって項目として纏めて見てゆくと、それとぼくとの関係も鮮明になってくると思います。もちろん人名索引も入れますよ。たとえばツキディデスとトルストイのあいだに辻さんの名前が並んでいたりすると愉快ですね。」

森自身も、自著のなかで索引について書いている。

   ただ一つ心残りは巻末に語彙索引を付することが出来なかったことである。「伝統」的な日本の言葉、ことにその一つ一つの語を、私なりに本書の中の「経験」が定義しているということ、それが本書が形をなした最も大きい理由の一つである。しかし語彙索引はやがて刊行されるべき後続のどれかの巻で果たしたいと考えている。(「一九六八年版へのあとがき」『城門のかたわらにて』『エッセー集成2』

索引は森有正が果たせなかった「仕事」であり、索引をつくることは彼の「意志」を継ぐことになる。とすれば、索引づくりは、作品を読む感動とは異なる、もっと能動的な感動を私にもたらすに違いない。


こうして、『庭』の索引も置いてある「はてなダイアリー」で索引づくりをはじめた。

はじめてみると、意外な利点を見つけた。単純な手仕事は、気持ちが浮かないときに助かる。ページを繰り、語句を見つけて、日付とページ数を記入する。余計なことが頭に浮かばないので、気持ちが落ち着く。単純作業は、果実が搾取されない限り、作業者に利益をもたらすことに気づいた。もちろん最大の利益は、これから『エッセー集成』を読み返すときに得られるはず。

索引は、情報発信の場にもなる。これまでの文章は、情報より表現を目指していた。もともとインターネットは情報の発信、交換を目的として発展してきた。索引は、これから森有正を読む人に、目に見える利益をもたらすと期待できる。

とはいえ、この索引は私家版の域を出ない。項目の選択は独断と偏見による。作業も気分次第で進んだり、休んだりすることだろう。

実際にはじめてみると、索引作りは簡単ではない。機械的に読んでみると、森有正の文章は、同じ語句を繰り返すので、少々うんざりしてくる。「経験」など、ほとんどすべてのページに登場するので、索引項目にする意味がないのではないかという気さえする。そういう語句は、登場しない文章を読むと、何か発見があるかもしれない。索引は、ある場所だけでなく、ない場所も教える。それも、索引を作りはじめてわかった。


索引を作りはじめてわかったこともある。パリに移って間もない時期の文章には、同じ語彙が繰り返し登場する。この時期は、まず表現する道具となる語彙を削り出し、磨き上げている段階。やがてフランス滞在も20年を越すと、言葉は自家薬籠中のものとなり、自在に現れる。話題も、当初目が向いていた身のまわりにある美術や文学から、政治や社会へと広がる。

思索の対象が広がっても、磨き上げられた語彙を通した焦点は、ぶれることがない。後期の文章を読めば、澄み切った思索の結晶を観察することができるし、前期の文章を読めば、語彙が概念となる過程、森の言葉を借りれば「体験」が「経験」に「変貌」する「操作」を味わうことができる。


以下、凡例として。

底本は、『森有正エッセー集成』(全5巻、ちくま学芸文庫、1999)を使う。『全集』(筑摩書房、1978-1981)よりも入手性は高く、読者も多いだろう。作品名と日付のあるものは日付も記載するので、全集にも対応する。

『エッセー集成』以外でも、入手しやすく、また読みやすい『生きることと考えること』と『いかに生きるか』(講談社新書、1970、1976)も、いずれは索引化するつもり。

最近読み返して、これら新書のもとになった仙台での講演に山形孝夫が関わっていたことを知った。別々にたどった読書がつながる不思議と快感。その刻印を残すために、第一部の目次にある書名に編者の名前を入れておいた

森は、一つの言葉を使いはじめると多用する傾向がある。そこで同じ作品、日付では二度目以降、ページ数を記していないこともある。別の話題に移ってから、再び登場する場合には、ページ数を記すこともある。いずれにしろ、ページ数の表記は登場回数とは一致しない。

ある言葉がある日付、ある作品で用いられている場合、その日、その文章全体でその言葉について考えられていると思ったほうがいい。索引は、あくまでも断章的散文を読み返す手引きを目的にしている。

作業は、読み返して、目についたところからしている。また索引語は、予め決めてはいない。作業しながら追加している。だから、若くないページ番号が記載されていても、それ以前の索引化がすんでいるとは限らない。


森有正の文章には頻出語がある。語彙では、感覚経験人間。場所では、ノートルダムシャルトルサンジャック街パリ新宿。人名では、デカルトパスカルバッハ。こうした言葉をたどると、ほとんどすべての文章を読むことになる。一度読み通した後はこれら第一水準の頻出語がない、空白地帯を探して読むと面白いかもしれない。

例えば、音楽について書いていてバッハの名前がない、ノートルダムを見なかった日、東京以外の日本。あるいは、もう少し頻度が低い、第三水準くらいの言葉に、森有正の思想の特徴がよく出ている気がする。語彙では、悲しみ、軽薄、出発。人名では、小林秀雄ジャンケレヴィッチ丸山眞男西田幾多郎など。

索引は、そのときどきで移り変わっていく自分の関心事と交差する接点を見つけることも容易にする。

思えば、今年は森有正、没後30年。彼が生れてからは95年が経つ。終わりの記念が新しい出発点になることを願う。


『森有正エッセー集成』(全5巻、ちくま学芸文庫、1999)- 索引

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さくいん:森有正辻邦生



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