読書の階段、荒川洋治、毎日新聞、1999

言葉のラジオ、荒川洋治、竹村出版、1996


新しい詩集『心理』と短文集『世に出ないことば』(いずれもみすず書房)は案の定、図書館では貸出中。買う余裕もいまはないので、まだ読んでいない少し古い書評集とエッセイ集を借りてきた。読んで面白いのは、言葉や本についての話。ただでさえ小説はあまり読まないところへ、荒川の選ぶ小説には、それほど興味がわかない。趣味の違いとしか言いようがない。

例外は伊藤整『若い詩人の肖像』。日本の小説ばかり読んでいた中学三年生の頃に読んだ。細かいことは忘れてしまったけれども、赤裸々な性衝動の告白や燃えるような詩人への野心は記憶に残る。

収録されているのは講談社学芸文庫(1998)に寄せた解説。新聞の書評記事が多い本書のなかでは長いほう。詩人の書いた小説なのに「考える」という言葉が頻出するところに注目するところが、考える詩人、荒川洋治らしい。

   「考える」という語句が飛び出すたびに、作者は古い自分を抜け出し、乱れをただし、内部を一段と成長させていく。

それまで文学にあまり興味がなかった15歳の私が引き込まれるように読んだのは、こういうところに磁場があったからかもしれない。すぐれた書評を読むと、自分の読書の記憶が書き換えられていく。

『言葉のラジオ』は、TBSラジオの毎週火曜日朝8時からの番組原稿を元にしたエッセイ集。番組は今も続いている。私が聴きはじめたのは四年前。本書の元原稿が放送された頃にはまだ聴いていなかった。

番組では、気になる新刊や文学賞など文学時評のほかに、読書感想文、日記、入学試験など最近でも繰り返されている話題もある。現代の日本語を考えるとき、避けて通れない問題なのだろう。

立ち止まったのは、「随筆とエッセイの違い」。多くの書店では、エッセイの棚に「ちょっといい話」や自己啓発本やハウツー本、有名人の身辺雑記が並んでいる。荒川は、そうした流行りのエッセイに苦言を呈する。

   いま目にする文章のほとんどは随筆ではなく、エッセイだといってよいだろう。マスコミの発達で発表の場がふえエッセイは花ざかり。エッセイの語感の軽さが「ちょっと文才があると書ける」という幻想を与えるために通俗化する傾向。エッセイはどう転んでも自分の個性や知識を売り物にするもの。結果的には自己主張にとどまる。随筆は一見閉鎖的な場で生れるが、他者を描き、時代をとらえ真実に触れる。だから随筆は、エッセイについても、それが何であるかをつづることができるだろう。(「随筆とエッセイとの違い」『言葉のラジオ』)

負のエッセイに対して正に置かれているのは、随筆。具体的に彼の念頭にあるのは寺田寅彦、内田百閒、福原麟太郎、高橋義孝、森田たま、幸田文、岡部伊都子、白州正子など。「いずれの人もそれぞれの世界でつちかった知識や感覚で自宅の周辺や社会のようすを軽妙につづる」と続く。

「文学が好き」と公言してはばからない彼の趣味がよく出ている。荒川の列挙する作家はほとんど読んだことがない。私が好んで読む文章は、もう少し学究的だったり、趣味の世界に傾いていたり。

ところで、文章について近ごろ頭から離れない疑問がある。鉄道好きの写真家、ベテランのギタリスト、ある分野を究めた研究者。そうした人たちが書いたエッセイやインタビューは、楽しくてまた含蓄ある言葉が多い。

結局、心を動かす言葉は何かをとことん突き詰めた人から自然にこぼれてくるものなのではないか。荒川洋治の文章にしても、詩人として自分の仕事を続け、また文学好きとして趣味を深めた結果、しみでてくる滋味のようなものがある。

随筆かエッセイか、ジャンルに優劣はない。問題は、書き手がどれだけ自分の経験や知識を掘り返し、裏返し、相対化しているか。どれほど究めても、自分の世界に寄りかかれば「他者を描き、時代をとらえ真実に触れる」ことはできない。

問題は、ジャンルではない。確かに、何かを成し遂げたり、究めたりした人の書いた文章は、面白くて、ためになる。では、すぐれた文章は文章以外の分野で人間を深めた人に書けるものなのか。文章を書くことで人間を深めて、すぐれた文章が書けるようになる道はないのか。この問いに「文学が好き」という言葉はどういう関係にあるか。すぐには答えられそうにない疑問が残る。

最近、荒川洋治は「文学が好き」から大きく踏み出し、「いまの時代に書いておかなければならないことを書きたい」と話すようになり、「自分のことを語る時代は終わった」とまで言っている

自分を書くかどうか、それは問題ではない。ウンチクを並べたてたエッセイがつまらないこともあれば、身辺のことを書いただけの随筆にも深みのあるものが少なくないし、告白する私小説でも「考える」ことを促すものもある

世の中の文章は自分のことばかり書いている。荒川はそう危惧している。詩と文芸の世界ではそうなのだろうか。政治と思想、いわゆる論壇の世界では自分のことを棚にあげた文章ばかりのように感じる。そういう世界に荒川の宣言が都合よく消費されることが私には心配でならない。

誰も自分のことなど書いていない。私にはそう見える。書いているのは、世間から求められているキャラや、自分のなりたい願望の姿ばかり。赤裸々な告白でさえ、あることを語りたがり、ほかを語らない自分を見ていない点では、自分を書いてはいないことは同じ。

書こうと書くまいと、いずれにしても自分は描かれ、自分は露見してしまう。記号性と象徴性が入り混じる言葉による表現ではとくにそう。前者に傾けば、「これを知ってる、これを成し遂げた」という自己主張になるし、後者に傾けば、「気持ちのいい言葉」で終わる。

荒川の宣言と私の懸念を素描していたら、丸山眞男と森有正のあいだにあったタコツボ論争を思い出した。丸山は「思想のあり方」(『日本の思想』岩波書店、1961)で、現代では専門家集団がタコツボを形成し、共通の言葉や概念を内輪で弄んでいると批判的に分析した。この考察を読んだ森は、次のように批判、というよりも自分自身への問いとして読みかえている。

   私の感想では、その「タコツボ」内の一人一人の人間が自分の「タコツボ」をもっていないことが、こういう一種の共同体的「タコツボ」を形成させる原因の一つになっているかと思われた。自分だけの「タコツボ」があれば、こういう共棲的「タコツボ」は自然不可能となり、かえって、一人一人が広い共同の場で他と交渉せざるをえなくなるのではないかと思われた(後略)。(「ひかりとノートルダム」(1966)『エッセー集成3』ちくま学芸文庫、1999

丸山眞男は、自分の経験や情念は「自己内対話」と呼ばれる手帳に封じこめ、外に向けては学問的な表現に固執した。森有正は、一見自分の経験を語るようなエッセイを書きながらも、私生活を切り売りするようなことはせず、一人の経験から普遍的な人間の経験へ広がっていくような考察を続けた

自分の外を書こうと内を書こうと、確固たる自分を内にもち、なおかつそれを相対化して見る、もう一つの自分をもたなければ、自分を書くことはできない。矛盾に挑むという意味で、自分を書くということは、終わりのない文学的主題の一つといえる。

丸山眞男に光を当てた詩もあるという荒川の新しい詩集を読む日が、楽しみになってきた。