烏兎の庭 第一部
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6.12.03

文学が好き、荒川洋治、旬報社、2001


「文学が好き」というあまりに直接な表現は心地よく響く。しかし、荒川にとって文学とは何なのか、それをはっきりさせなければ、せっかくの言葉も詩人の意図しない虚しい標語に終わってしまう。荒川は「文学が好き」だという。そして「文学を読もう」ともいう。自分のためだけでなく、他人のためにも読もう、という。他人にとって意味がある文学とはどんなものだろう。荒川が好きだという文学の本質は何なのだろうか。

まず明らかなこと。文学は言葉による表現。つまり、「文学が好き」の意味は、言葉による表現を楽しむということ。そうはいっても、言葉あそびのように音や意味のずれを楽しむだけというわけではない。言葉で表される内容にも、荒川は意味を、少なくとも楽しみを見出しているようにもみえる。

文学が表す内容は、何かのためになるものでは必ずしもない。前向きなことばかりでもない。社会や人間の全肯定でもなければ、全否定でもない。むしろ全肯定も全否定もできないような社会や人間がもつ両義性、複雑さ、多様性、そうしたものを言葉によって巧みに表現するのが文学。

表現だけでもなければ、内容だけでもない。その二つが一体となっているところを、荒川は「好き」といっているようにみえる。だから彼は、仔細にこだわる。一語、一文の面白さ、奥ゆかしさ、鋭さを大切にする。例えば、大手拓次の日記、何でもない一日の記録の最後に添えられた一語「のり」に感動する。

個別の表現に感動するだけではない。荒川にとっては、文学そのものが個別的。彼は書物との出会いを重視する。それぞれの本にはそれぞれ読み時があると、荒川は述べる。裏を返せば、誰にでもあてはまる必読図書というものはない。ラジオ・コラムでも荒川は、かなり有名な作品でも「まだ読んでいない」ことを軽々と認める。平然とした告白は、自分が好きな本しか読んでこなかった証でもある。

別な言葉で言えば、彼は文学に客観的な体系を見出そうとしない。もちろん文学史、文学の地域性、分野による分類を彼もしないわけではない。ただし、彼が用いる歴史や分類は、彼個人が歩んできた書物との出会いによって積み重ねられた体系。いってみれば、荒川は自分のなかに自分にとっての文学史と文学全集を編み続けている。

要するに、荒川にとって文学とは、その出会いから読書、読後まで徹底して個人的な経験。読書とは、ただ書かれている文章を理解することだけではない。本を通じて知識を吸収することだけでもない。文学が好き、ということは、書物のもつ世界と個人的な内面世界がつながることが好き、ということ。そこに自分ひとりにとっての読書の楽しみと意味が見出されてくる。

読んだら、その本をひとことで表現してみよう、と荒川は奨める。詩人ならではの読後感のまとめかた。ひとことにするのは、他の人に書物の世界を伝えるため。自分が書物の世界とつながっているから、その言葉が意味あるものになる。他の人を書物の世界へ誘う。

彼が紹介する本は、一般的には知られていない作家、作品ばかりといっても言い過ぎではない。「好き」だから書く書評は、聞いたこともない作家を読みたい気持ちにさせる。個人的な経験を突き詰めることによって、他人との関わりが深まる。これは逆説ではない。

この時間にこの作品を読んでいるのは、広い日本でも僕だけだろうなという思い。これはたいへん気持ちのよいものである。読んだら感想を好きな人に伝えよう。一分で。わあ、楽しみだね。(「他人のための読書」)

この引用のように、本書には書き出したくなる気の利いた文が随所にある。荒川は十分間のラジオ・コラムでも、どこかで必ずぴりりとした一言をはさむ。文章ではさらに、ぐさりと刺す一文のなかに普通の言葉が、詩人らしく普通からは少しずらした意味で隠し味のように使われている。

他からもらったもの、その世界に合わせたものではなく、手持ちの言葉を用い、その働きを十分に生かして、ものを考える人のほうが、上等だと思う。(「『論文』の香り」)
出会いをのがしたら「学ぶ」機会はうしなわれる。「学ぶ」ためには「学ぶ」人と、はぐれないことである。(「雑記帳、本屋、風邪」)
現実にある(あった)言葉を解釈する。それが言語学の人たちの作業らしいが、それだけでは不十分だ。「無い」言語を視野に入れる必要がある。漢語、日本語の数はこれで十分なのか。もし足りない領域があれば、そこには文化や歴史がどう関係しているのかというようなことを考えてみるのも意味のあることだと思う。
「あなたの日本語は正しいか」ではない。「言葉はどうなのか」ということである。(「言葉がない」)
さて、ぼくは読みかたではなく、書きかた、主に書くときの気持ちのもちかたをジャンル別に整理してみた。「簡潔」を旨としたい。
   ≪小説≫自分がその件について書けることをすべて書く。「自分がかかえている問題」が、いちばん重要な問題なのだと思って、つきすすむ。
   ≪エッセイ≫自分がその件について知ることをすべて破棄する。知識、情報、数字を出さない。できあがったら子供や年下の人に見せて、意見をきく。「これでいいかなあ」
   ≪評論≫誰もが考えもしない視点をもちだし、「問い」を突き出す。発表まで決して人に見せてはならない。
   ≪詩≫自分のなかにある「権力」をゼロにする。言葉をも追い払う気持ちで書き、死後に託す。生きている人の評価に耳を貸してはならない。(「基本という『本』」)

荒川の文章は、彼がいうところの≪エッセイ≫≪評論≫≪詩≫の要素がすべて織り込まれている。その重なりあうところに荒川の文学がある。思想がある。



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