若い詩人の肖像(1956)、伊藤整、新潮文庫、1958

フランス・ユマニスムの成立(1976)、渡辺一夫、岩波書店、2005


若い詩人の肖像 フランス・ユマニスムの成立

荒川洋治『読書の階段』(毎日新聞社、1999)のなかで、伊藤整『若い詩人の肖像』の文庫本のために書かれた解説が印象に残った。この小説は中学三年生の頃に読んだ記憶がある。覚えているのは、詩人になろうとする青年の野心と噴き出すような性的な衝動。

何が印象に残るかは、そのときの自分の心持とも関係がある。いま読み返すと、語り手の赤裸々な自己分析よりも、冷静な人物描写に目が向く。


この小説は各章が連作になっているので、途中からでも読める。読んだこともある本なので、ぱらぱらとページをながめていると、最終章「詩人たちとの出会い」の中に島崎藤村の名前をみつけた。

昭和の初め、伊藤自身である「私」は中学教員を辞め、小樽から東京の商科大学に入学した。上京の本当の目的は、詩人として自立することだった。

「私」は、友人の勧めで飯倉町に下宿する。そこで、自分を詩の世界に招いた若い日の偶像を見かける。藤村は、口げんかする二人の子どもをじっとみている。

   島崎藤村は、その言い争っている男の子たちのそばに立って、黙って二人の様子を見ていた。それは、一人ずつの言い分を聞いてやるという風にも見え、またどちらでも手出しをしたら叱ってやる、という態度にも見えた。しかしその様子には、子供のケンカをとめようとする時に、普通の大人のとる態度と全く違った気配があった。普通の大人なら、とっくに、何か言葉をかけているところであった。彼は子どもたちのすぐ目の前で黙って見ているだけなのであった。島崎藤村は、この時数え年で五十七歳であったのだ。身ぎれいにしている骨太の小柄な身体はしゃんとしていて、衰えは見えず、精神力が溢れているような感じがした。
   私は、そこへ近づいて行きながら、自分が島崎藤村という人間に気づいていないという態度を取った。私は、言い争っている子供に気をとられている態度で、さりげなくそこへ近づいて行き、藤村と向かい合うようにして、子供たちに目を注いだ。子供たちは、老人に黙って見られているのを気づまりに思いはじめたらしく、やがて黙り込み、別々にそこから立ち去った。島崎藤村はコトコトと下駄の音をさせて谷底の方へ下りて行き、私は電車の方へ坂を上って行った。

感情を表わす言葉は何もなくても、「私」が、文豪の悠然としたたたずまいに感心している様子がよくわかる。「私」も負けてはいない。憧れていた人を前にしても興奮を抑え、自分が詩を書いていることも、熱心な読者だったことさえも告げずに、正反対の方向、しかも谷底に下りる老人に対し、自分は上に向かって歩き出す。意気軒昂と歩き出す青年の姿が目に浮かぶ。

また、これを書いたのが、自ら大家と呼ばれるようになってからであることを考えると、書き手は自分自身を谷底に下りていく者と考えながら、読み手である若者たちに坂道を上っていくことを促しているようにも読める。

この逸話が実話に基づくものかはわからない。けれども、描写だけではなく、この逸話じたいに藤村らしさがよく表われているように思う。藤村は、抒情詩を出発点にして自然主義文学を開拓した。しかし同じ場所にとどまることはなく、表現は変遷した。その一方で自然主義に対抗しながら成長したプロレタリア文学とも距離を置いた。そうした中立、独立独行の感覚が藤村の日常にあったことを、この逸話は感じさせる。文章には、こういう技法もあることを教えられた。


藤村は、中立中庸、独立独行の人だった。今でこそ、そう評価できるけれども、同時代にあってはどうだったろう。かつては創始者、開拓者と呼ばれた人でありながら、いずれの陣営にもつかない、特に鮮烈な発言をするわけでもない、そういう人は現実と妥協したとみられがち。

図書館の新刊棚にあった渡辺一夫『フランス・ユマニスムの成立』(1976、岩波全書、2005)は、エラスムスをそのような独立独行の人とみる。明確な定義はないまでも、渡辺がおぼろげながらも枠を引いたユマニスムという考えは、島崎藤村の文学に通じるものがあると、私は勝手に思っている。小説の一場面にある藤村の肖像にはっとしたのも、それより前に渡辺一夫のユマニスム論を読んでいたから。


ルネサンス後期、エラスムスは教会の硬直した制度を批判し、ラブレー、ルター、カルヴァンなどの破壊者、改革者が生れる素地をつくった。しかし、彼自身はいずれの陣営にも属さず、改革運動に積極的に参加しなかった。そうした態度は、同時代はもちろん、死後にも非難する人が少なくなかったという。

渡辺一夫は、エラスムスは優柔不断などではなく、彼のような態度こそ、ユマニスムと呼ぶに価するものではないかと考える。

もっとも、渡辺はユマニスムの定義を避けている。この本を読んで驚くのは、過剰にみえるほどの著者の謙遜ぶり。自分にはユマニスムを定義する力はない、この研究では不十分かもしれない、後学に誤りの訂正を期待する、などなど。


最近では、この本ではこれを論証した、私はこれを解明した、と宣言したり、「オレが教えてやる」という態度の本が少なくない。新刊の帯には、さらに過激な言葉も並ぶ。

背景には、渡辺個人の資質だけではなく、著者や専門家の地位も関係している。本を出すのが、文豪と大学教授だけの時代ならば、謙遜はかえって彼らの権威を高めるかもしれない。しかし、誰もが何にでも語ることができる時代にあっては、我こそはこの件について語る資格あり、とまず耳目を引かなければ、振り向いてもらえない。

確かに、渡辺は、慎重に謙遜した表現を用いながらも、宗教改革の時代の向うに現代が透かし絵として浮かび上がるようにして、現代のユマニスムを論じようとしている。この本は文学史を通じて、思想のあり方まで大いに語っている。


渡辺が、ユマニスムについて直接に語らないことには、彼の資質やメディアの状況だけではなく、彼が考えるユマニスムのあり方とも関係がある。

ユマニスムは思想ではない。人間が自分の作ったもの(制度・思想・機会・技術)を使い切れず、逆に使われる恐れはありはせぬか? その結果避けられる筈の悲惨や危機にも陥るのではないか? と考えることは、ユマニスムの領域に属する。ユマニスムは思想ではない。ユマニスムは、人間を野獣から進化せしめたものとつながりはあるが、進化した代償として守り続けねばならぬ自己批判の精神とも言えるだろう。この代償を忘れ去った時、人間の悲惨と危機とが現われるに違いない。(「結語」)

ユマニスムは、定義することができない。なぜなら人間が作り出したり、定義したものに、人間は使われてしまう恐れがあるし、ユマニスムは何よりもそれに反対するのだから。


言葉をかえれば、ユマニストは自称することもできない。自称するためには、ユマニスムが定義されていなければならないから。そして、定義することができないものは、そのまま継承することもできない。

形あるものを継承するのではない。若い詩人が、まったく正反対に歩き出したとき、島崎藤村の名前でも作品でもない、何かが彼の心に映し出されていたにちがいない。やがて、彼が自身の青年時代をふりかえる小説を書くとき、島崎藤村を継承したと言葉では書かれていなくても、確かに人間のなかにある何かが継承されていることが、読み手に伝わる。