藤村全集 第六巻、島崎藤村、筑摩書房、1967

藤村全集 第九巻、島崎藤村、筑摩書房、1967

藤村全集 第十三巻、島崎藤村、筑摩書房、1967


『破戒』を読み、そのあと研究書や短い評伝を読んで、島崎藤村に少し興味を持った。そこで読みなれていない長編小説ではなく、好んで読んでいる随想や批評を探して図書館で全集を借りてきた。

島崎藤村はいくつも、感想集と呼ばれる随想、批評文集をいくつも出している。今回借りた全集に収録されているのは、『新片町より』(1909)、『後の新片町より』(1913)、『飯倉だより』(1922)、『春を待ちつヽ』(1925)、『市井にありて』(1930)、『桃の雫』(1936)。それから数々の拾遺。

内容は、身辺雑記というより、真剣な思索のうえに書かれた哲学的断章。一行だけのアフォリズムのようなものも多い。内容は社会時評よりも文学論や芸術論。書斎の陽の当たり方のようなことでも、生真面目な考察になっている。藤村の気難しい性格がうかがわれる。


なかには軽妙な文章もないわけではない。もとは自分の子ども達のために自作した「いろはかるた」(「市井にありて」『全集 第十三巻』)には、面白くて、考えさせる名文句がいくつも見つかる。

 犬も道を知る。
    櫓は深い水、棹は浅い水。
    星まで高く飛べ。
    臍も身のうち。
    ちいさい時からあるものは、大きくなってもある。
    丘のように古い。
    わからずやにつける薬はないか。
    賢い鳥は、黒く化粧する。
    零点か、百点か。
    なんにも知らない馬鹿、何もかも知っている馬鹿。
    蝋燭は静に燃え。
    胸をひらけ。
    のんきに、根気。
    玩具は野にも畠にも。
    誠実は残る
    決心一つ。
    独楽の澄む時、心棒の廻る時。

批評については、何度も書いている。優れた作家は優れた批評家に育てられる、優れた作品は優れた批評によって輝きを増す、と藤村は考えていたように感じる。

作品の批評も科学的という所迄進めば立派なる事業には違いないが、一を人生の批評、一を芸術の批評という風には分けて考えたくない。芸術を批評するは則ち人生を批評するのであると考えたい。世には、作品あって批評あり、作品なければ批評のない場合もある。これ鑑賞である。自由なる批評の精神は必ずしも作品の上にのみ束縛されるものではないと思う。批評は決して片手間に出来る仕事ではない。もし作家を生れて来るものというなら、批評家も亦た生れて来る。批評は大きな事業である。(「批評」「新片町より」『全集 第六巻』)

この文章は若い頃の小林秀雄の文章のようにも見える。晩年の小林であれば、批評の対象は芸術でもなければ人生でもなく、自分自身と言い換えるのだろう。この文章は、小林秀雄が出現することを予言しているようにもみえる。

藤村は残した作品から見れば、あくまでも詩人、小説家。とはいえ、彼は批評から遠い作家ではなかった。批評の先駆者、北村透谷と深い関わりが彼を作家にしたといってもいい。


透谷の死については、命日の記念に藤村は何度も書いている。透谷をモデルにした人物は、小説にも繰り返し登場するらしい。そのことを解題に、また書いている。透谷と関わった時間は長くはなかったようだけれど、その才能と死は生涯、藤村をつかんで離さなかった。

つまり藤村は、透谷の残した仕事と突然の死について、苦しみながら思索し、小説という虚構のなかに再現することを通じて、もう一度、自分の内面で静かに思索することを繰り返している。すでにいない透谷の存在を見つめ直すためには、一度は虚構の世界へ突き放さなければならなかった。

そのように考えると、『破戒』についても、新たな感想をもつ。猪子蓮太郎は、丑松にとって同じ信念をもつ尊敬すべき先達。しかし、その先達は信念のために命を落とす。丑松は苦しみ、一度は死まで覚悟するが、ともかく生き延びていくことを決意する。蓮太郎と丑松を透谷と藤村になぞらえても、読み込みすぎではないだろう。

いずれにしろ『破戒』という小説は周到に準備され、緻密に書かれた作品であることは間違いない。「山國の新平民」(「新片町より」『全集 第六巻』)では、驚くほど冷静に自分の作品を分析している。


『破戒』は、その前に多くの詩を書き、その後にも多くの小説を書いた藤村にとってさえ、忘れることのできない作品だった。それは、作品の内容だけでない。『破戒』が出版社の力を借りず、自費出版されたこととも関係している。「著作と出版」(「市井にありて」『全集 第十三巻』)での回想。

私が柄にもない自費出版なぞを思い立ったのは、実に当時の著作者と出版業者との関係に安んじられないものがあったからで。何とかして著作者の位置も高めたい、その私の要求はかなり強いものであった。その心から私は書籍も自分で造り、印刷所や製本屋へも自分で通い、自分の作品を直接に市場に送り出そうとした。

藤村は、収入面で経済的にも、作品の発表機会、内容の面で精神的にも、雑誌や新聞に依存せざるをない作家の地位を向上しようと苦慮した。夏目漱石が自分のためではなく、作家の地位のために多額の稿料を要求したことを尊敬をこめて記してもいる。

『破戒』以後も、自ら編集する『緑蔭叢書』は、『春』『家』を世に出した。忘れられていく透谷の全集を編集したり、自分の全集も自ら編集している。その意味で、作家であると同時に、文芸産業の開拓者でもあった。

今日、作家は出版産業からどれだけ独立しているだろうか。ペンで食べていくという経済的な自立が、かえって自由に書く精神的な自立を危ぶんではいないか。外見や趣味を露出するタレントとしてではなく、作品を生む作家としてとらえたとき、どこまで作家として世間に評価されているだろうか。

そもそも作家とは、作品を生む人間であると、世間は受け止めているだろうか。作家自身はそういう心意気で作品を書いているだろうか。


今、書き手、送り手、読み手の関係は、藤村の時代とどう同じで、どう違うだろう。随想や批評、エッセイと呼べるような文章を読むと、書き手の置かれた時代状況を考えないではいられない。小説は、少し違う。小説には、前も後もない。あるとしても、作品のなかにしかない。だからこそ、ある時代を生き生きと描き出すことができる。

エッセイを書くとき、書き手は時代のなかにいる。時代に逆らったり流されたりしている。その姿は、書き手の時代から離れるほど、読み手には、時には作家が憐れになるほどに、はっきり見える。

藤村のエッセイは、読んだものはどれも面白い。けれどもすべては読みきれなかったし、さらに借りて読む気にはなれなかった。なかには、私の知らない作家や作品の名前も多く登場する。藤村のことや、彼の生きた時代をよく知っていれば、もっと面白く読めるに違いない。言葉遣いも、昔のものと思って読めば面白いが、いかにも古く感じるものもある。実際、旧仮名遣いは読みにくい。

エッセイは、時代に瞬発的に反応する。同化するにしろ反発するにしろ、流行している言葉、人、作品に敏感になる。しかし、同時代に敏感であればあるほど、時代が変われば新鮮味は失われる。『破戒』は今も、複数の出版社から文庫本が出ている。エッセイの多くは、図書館の隅に置かれた全集でしか読むことができない。

エッセイの宿命と言えないだろうか


さくいん:島崎藤村


碧岡烏兎