星に帰った少女(1977)、末吉暁子、こみねゆら絵、偕成社、2003

レヴィナス 何のために生きるのか シリーズ・哲学のエッセンス、
小泉義之、日本放送出版協会、2003

未完の菜園 フランスにおける人間主義の思想(Le jardin imparfait: la penseé humaniste en France, 1998)、Tzvetan Todorov、内藤雅文訳、法政大学出版局、2002


今月初め、久しぶりに大阪に行った。夕方、駅前の大型書店を散歩。『弔いの哲学』(河出書房新社、1997)で名前を知った小泉義之の本を見つけた。レヴィナスには、これまで関心がなかったけれど、興味をもった小泉の書いた本ならと思い、手にとってみた。

『シリーズ・哲学のエッセンス』は、薄くて軽い。これまでに『ベルクソン』(金森修、2003)『アウグスティヌス』(富松保文、2003)を読んでいる。入門書といっても、従来の新書に多かった伝記や著作の要約とは違う。主要な著作や、根本的な問題意識を一つ選び、集中的に紹介する、言ってみれば一点突破型。

従来の入門書に多かった全体照射型では、ややもすると表面をなでるだけに終わることがある。一点突破方式は思想家の世界を小さな穴からこじ開ける。読み終えると、広大な世界を見渡せる入口に立った気になる。

とはいえ、問題意識やこじ開け方に共感がもてないと、我田引水に読めるかもしれない。そう思うくらいなら、このシリーズは読まないほうがいい。初心者に宛てた入門書というより、それぞれの著者が自分のために書いた覚書のように、私には思える。

「何のために生きるのか」という問いに、小泉は出し惜しみせず、レヴィナスの回答を序章で掲げる。暫定的な答えも究極的な答えもあらかじめ出ている。私はすでに生きている、そして、どう生きても私は最後には死ぬ。この問題に悩むのは、問題の立て方が悪いから。答えがすでに出ているのだから、答えにあわせて問題を立てなおしたほうがいい。小泉は、レヴィナスの言葉を手がかりに、問題のたてなおしを試みる。

最初の序章と最後の小伝を読み、そう一人合点した。そして、本文は読まずに、そのまま帰った。あとで図書館で借りて中身を読みなおしてみると、レヴィナスの言葉遣いはなじみにくく、小泉の筆運びも歩調をあわせづらくて、何度か読みなおすことになった。薄い本なので、それもしやすい。

『弔いの哲学』は、末吉暁子の児童書『雨ふり花 咲いた』と一緒に読んだ。今回も、『レヴィナス』を読みあぐねていたとき、図書館で、夏休みにあわせて星にちなんだ本を集めた棚で『星に帰った少女』を見つけた。『雨ふり花 咲いた』のあとで、こみねゆらの挿画を添えて新装復刊された本。原著が書かれたのは25年以上前。ちょうど私がこの本の対象となる年齢だった頃。読んでみると、不思議なことに『レヴィナス』に書かれていることまで、わかってくるような気がしてきた。


主人公、マミ子は六年生の女の子。両親は離婚し、働く母親と二人暮らし。孤独感や疎外感を、タイムスリップを通じた出会いが埋めていくところは、『雨ふり花』と同じ。

気に入ったのは書名。読みはじめる前には、主人公が「星に帰る少女」に出会う話と想像していた。そうではない。「星に帰った少女」とは、主人公、マミ子のこと。読者は、マミ子とともに、自分で自分を見る目ではなく、他者の目を通じて自分を見る目を知る。しかもその目は、ずっと遠くでありながら、もっとも身近なところにある。

他者の目は他人の目とは違う。幸福か不幸か、それは自分にしかわからない、自分にしか決められないことなのに、人は他人の目で判断してしまいがち。そのとき幸不幸は量で測られる。何かがあるか、ないかで測られる。

父親がいないこと、働く母親の帰りが毎晩遅いこと、それ自体は不幸なことではない。マミ子はそう思ってはいる。でも、気にしていること自体、他人の目から自分を見ている証拠。

他者の目は、自分のなかの自分以外の視線。それは、幸不幸を量ではなくて、質で観察する。善悪、真偽、多寡では測れない質によって、自分の外から自分をみるとき、はじめて「この世に一つだけの存在である私」に気づかされる。


それでは「この世に一つだけの存在である私」は、どこから来たのか。『星に帰った少女』は、家族の歴史の物語でもある。小泉の論考に従えば、家族、少なくとも両親のいない人はいない。人間は二つの命から、それを足すのでもなく、そこから引き出すのでもない、「複雑なやり方」で一つの命として生まれる。

家族がある人も、ない人も、ある人はある人なりに、ない人はない人なりに、そして、家族を失くした人は失くした人なりに、自分の命と家族の歴史を思う。そこにもまた他人の目で量を比較してしまう傾向があり、それとは違う、他者の目で質を自覚する志向がある。

自分が「星に帰った少女」だったことに気づいたマミ子は、幸せをほかの人と比較することをやめて、幸せの質について考えはじめる。そして自分の幸福の質として、家族の新しいあり方を受け入れることができた。

『弔いの哲学』もそうだったように、小泉がレヴィナスの言葉を通じて伝えたいことは、彼が書いていることよりもずっと控えめのように感じる。名前も知らない人々の死を同じ人類というだけで悼んだ気になるのはやめよう、名前を知っている人の死を思うことからはじめよう。『弔いの哲学』で彼が呼びかけたことを、私はそう読んだ。

血のつながりを重んじるとか、人は子どもを生まなければいけないとか、そんなことは言っていない。一人の人は、二人の人から生まれる。そしてもう一人の存在がなければ一人を生むことさえできない。

その生物的事実を謙虚に受け止めよう。そこから、人間の共同性に向かって、それを頭で先取りすることなく、少しずつ想像力を積み重ねていくことができるのではないか。『レヴィナス』の第三章を、私はそう受け止めた。


ところで、マミ子という名前は、絵本『きょうはなんのひ?』(瀬田貞二文、林明子絵、福音館、1979)でも読んだことがある。書かれた時代はほぼ同じ。『星に帰った少女』のほうが数年早いけれども、両親の離婚、働く母親などを舞台設定にしている分、新しい家族像にみえる。もちろん、それは書かれた時期より書いた作家の年齢が影響しているのだろう。戦後の日本語絵本の礎をつくったともいえる瀬田の描く家族は、理想的というより現代の視点からは保守的にさえみえる。

両親とともに一軒家で暮らし、仔犬までもらったまみ子が、アパートでひとり母親の帰宅を待っているマミ子を、何かを持っているかいないかで比べ、まして、それをもとに見下すようなことをするならば、彼女は幸福な人間とはいえない。幸福は、幸せな環境ではなく、幸せに生きる人格のことだから。どちらのマミ子にも喜びがあり、かなしみや苦しみも、それぞれにあるはず。それは量の比較ではわからない。瀬田がある幸せな家族を描いたときにも、その環境を当然や当為とするつもりはなかっただろう。


文学的な表現は、徹底して質の表現をもとめる。人の名前、場所の名前の固有性にこだわる。個別的な状況と個人的な主題を突き詰めていくことで、普遍的な何かを伝えようとする。哲学的な表現は、量の表現にかたむく。学とは、普遍的な問題を普遍的な言葉で表現する方法だから

それでは、思想的な表現とは何か。文学ほど名前にこだわらない。そうかといって、哲学ほど抽象的な表現を好まない。あいだで揺れる。質が、ここで問われる。

大型書店を歩いていたら、トドロフ『未完の菜園』を見つけた。原題を直訳すれば、「不完全な」。図書館で借りて読みはじめたけれど、きっとこの本の書評は書かない。本を読んで感想を書けるものとそうでないものがある。書けない、とは読み終えられないということ。この本も、いつまでも読み続ける一冊になりそう

序章で、思想の中途半端さと、それゆえに人間主義的であることが指摘されている。

  本書も本書なりに思想史の性質を帯びている。私は思想(パンセ、原典ルビ)とはいうが、哲学とはいわない。思想の領域は哲学よりもはるかに広く、実践にはより近いが、それほど専門的ではない。私が特定しようとする精神の系譜は、哲学的であるよりもむしろ<イデオロギー的>である。そうした系譜の一つ一つは、哲学的なところはあるが哲学に限られない、政治的・道徳的観念、人類学的・心理学的仮説の集合体である。このように、思想そのものの研究を選ぶことにより、私はすでに人間主義の系譜に肩入れしているのである。というのも、思想が自由ではないとしたら、思想は切り離して検討される価値はないからであるし、思想は文化的共同体、社会階級、歴史的時代、あるいは人種の生物的必然性による機械的な産物ではないからである。(序章 知られざる契約)

イデオロギー的、といっているのは、客観的、価値中立的な立場に対して、個人的であることを恐れないという意味だろう。

『シリーズ・哲学のエッセンス』が採用する一点突破型の書き方も、哲学というよりは思想的なアプローチといえる。その思想家は、なぜその問題にとり憑かれたのか、どのようにして取り組んだか。採り上げる紹介者たちもまた、教科書の一冊としてではなく、どうしてもその思想家と向き合わなければならない動機付けを大切にしている。


とりわけ小泉は『弔いの哲学』でも、思想家に対する好き嫌いや、批判する擁護するという立場を鮮明にしていた。『レヴィナス』でも、彼はレヴィナスの思想そのものよりも、思想に対する態度に最終的に注目している。本文のあとに続く結論。

レヴィナスにしても、何箇所かで、生き残ることの罪について語ってはいる。そう語らざるをえなかったのも仕方のないことであろう。しかし、レヴィナスは、その罪を徹底的に考え抜き、共に死ぬことはなくとも共に生きていく人間の共同性に賭けて、生涯をまっとうした。(レヴィナス小伝)

ホロコーストで家族親族をほとんど亡くしたというレヴィナスが、人間の繁殖について語る、そのことを語りだすまでの内的な発展と、それを語りながら生きた姿勢を、小泉は重視する。それこそが、思想の本質と彼が考えているからではないだろうか。


この日、『レヴィナス』は買わずに帰った。金額も高く、家まで持ち帰るのは重いのに探しまわって、『CLAMPノキセキ 第1巻 特集カードキャプターさくら』(講談社、2004)と『全ウルトラマン完全超百科 決定版 テレビマガジンデラックス147』(講談社、2004)を買って帰った。

『さくら』の記事は薄いけれど、付録の人形は机の飾りになった。『ウルトラマン』は、最新のマックスを除きすべてを網羅している。おかげで重たい『ウルトラマン・クロニクル』(高貴準三・イオン編、竹書房、1997)を図書館で何度も借りてくる必要もなくなる。古くて薄い図鑑を見ながら、あれがない、これがいないと詰問されることもなくなるだろう。

今年の夏休みは、こればかりになるかもしれない。それも、いいだろう。私と私でないものから生れた、私であり、私でないものたちと過ごす、もう一つの庭が私にはある。

私であり、私でないもの。そう、私の名前は彼らの名前で、同時にもちろん、私は彼らではない。

「不完全な庭」が、もう一つの「不完全な庭」と交わり、合成でも分割でもないやり方で新たに生み出される、「不完全な」しかし「一なる存在」である庭。そして、その庭が育ち新たな庭が、また生まれる。

その一連の出来事が起こる場所を、他人はどう呼ぼうと比べることはしない。私自身は、家庭と書いて、Homeルビをふっておく。


一つ、心に刺さった言葉を書き写しておく。

「そう⋯⋯。ママはね、いつかわたしの母とおなじように、まだ小さいあんたをのこして死ぬんじゃないかと、そんな予感がしてしかたがなかったの。母をなくしたころのわたしの年に、あんたがだんだん近づいてくるのをみてると、こわかった。⋯⋯日記があんな風に海にしずんでくれたのは、あたしにとっても、身代わりになってくれたような感じがするの。⋯⋯それにしても、あんたが助かって、ほんとによかった⋯⋯」

ここでは母親が、自分が母親を失くした年齢に子が近づくことを怖れている。

同じように、親しい人が亡くなった年齢に子が近づいていくのを、怯えながら成長を喜ぶ人もいる。