7/30/2005/SAT

特選 刑事コロンボ 完全版 美食の報酬 (日本語吹き替え版)(Murder under glass, 1978)、Jonathan Demme監督、パラマウント、1999

The Columbo Phile: A Casebook, Mark Dawidziak, Mysterious Pr, 1989

夏休みのはじまり。思いがけず一人で夜を過ごすことになった。ふだんはしないこと、できないことをしようと考えて、赤ワインを飲みながらビデオを見ることにした。安酒を飲むのは、いつもしていることと変わらない。

借りてきたのは、70年代の輸入テレビドラマ。放映時にも見た記憶があるし、92年頃再放送もよく見ていた。その頃、東京駅前の書店の洋書売り場で、いわゆるマニア本を見つけて、作品を見るたびに印をつけている。二重の記憶に新しい記憶を上書きする。

ロサンジェルス出身の人に、「L.A.といえば、コロンボ」と話したら大笑いされたことがある。外国から来た人に、「東京といえば『東京物語』」と言われるようなものだろうか。それは案外この作品のスタッフには笑い話ではなかったかもしれない。

東京から来た料理人はMr. Ozu。流暢な英語で犯人のレストラン評論家と話す。吹き替えであっても、二人がわだかまりなく英語で話していることはわかる。宴席に割り込み聞き込みするコロンボは、去り際に、「サヨナラ」と言っているらしい。

とってつけたようなゲイシャは奇妙だけれど、この作品ではイタリアから来た被害者の甥のほうが、合衆国に溶け込んでいない。英語も不自由で、イタリア移民のコロンボに通訳を助けてもらっている。

物語のはじめで、L.A.の名だたるレストランのオーナーたちが囲んでいるのは、しゃぶしゃぶ鍋。1970年半ばにはすでに、西海岸から見て東京はヨーロッパよりずっと身近になりはじめていたのかもしれない。

ほかにも、『ロンドンの傘』でも芸者のろう人形、『さらば提督』では座禅と、『刑事コロンボ』では端々に日本文化が登場する。当時、日本ブームがあったのかもしれない。

当てずっぽうに棚から引き出した作品のわりには、狡猾で高慢な犯人、第一作「殺人処方箋」と同じ戦法で、とぼけながら共犯の女性を脅して落としていく終盤、追い詰めていく最後の場面、どれも『コロンボ』の典型といえるほど完成度は高い。

それにしても、流暢に英語を話しているようにみえたKenji Ozu役の俳優は誰だろう。ビデオ・ケースの裏をみると、MAKOとある。

マコ岩松日米開戦前に合衆国に渡った絵本作家、八島太郎の息子。父の作品、『道草いっぱい』の日本語訳も手がけている。

こんなところで出会えるとは思ってもみなかった。

はじめて見る作品で、遠いむかしを思い出し、以前の読書を思い出す。いつの間にかワインは空いて、ジンを飲みすぎたのか、いつの間にか眠っていた。


8/6/2005/SAT

DVD ウルトラセブン(1967) vol.4、パナソニックデジタルコンテンツ、1999

  • 第14話 ウルトラ警備隊西へ 前編、金城哲夫脚本 満田かずほ監督
  • 第15話 ウルトラ警備隊西へ 後編 金城哲夫脚本 満田かずほ監督
  • 第16話 闇に光る目 藤川桂介脚本 鈴木俊継監督
  • 第17話 地底GO!GO!GO!上原正三脚本 円谷一監督

DVD ウルトラセブン(1968) vol.11、パナソニックデジタルコンテンツ、1999

  • 第42話 ノンマルトの使者 金城哲夫脚本 満田かずほ監督
  • 第43話 第四惑星の悪夢 川崎高・上原正三脚本 実相寺昭雄監督
  • 第44話 恐怖の超猿人 上原正三・市川森一脚本 鈴木俊継監督
  • 第45話 円盤が来た 川崎高・上原正三脚本 実相寺昭雄監督

劇場版 カードキャプターさくら 封印されたカード、CLAMP原作、浅香守生監督、バンダイビジュアル、2001

なぞの転校生(1972)、眉村卓原作、山根優一朗脚本、黛叶・吉田治夫演出、池辺晋一郎音楽、アミューズエンターテインメント、2001

テレビをほとんど見せないかわりに、最近ではビデオを借りてきて見るようになった。夏休みのお楽しみは約束どおり、(約束どおりだぞ!『セブン』と『さくら』

最終回を先に見てしまった『セブン』は、金城哲夫の脚本作品を選んですこしずつ。『さくら』は、シリーズ前半の「クロウ・カード編」の再放送が終わってから、順ぐりに後半「さくらカード編」を見てきた。ようやくこれで大団円。これから始まる再放送で、もう一度ゆっくり見なおす。

『なぞの転校生』は図書館で借りてきて、子どもたちにはまだ少し早いだろうと思い、一人で見た。もう一度、『未来からの挑戦』を見る前に


まるで雰囲気の違う作品を続けて見ていると、混乱してくる。混乱しながらも、子ども向けテレビ作品の歴史について考えてみた。

NHK少年ドラマシリーズを特集したムック『NHK少年ドラマシリーズのすべて(1972-1983)』(増山久明編、アスキー出版局、2001)の中で、少年ドラマシリーズが人気を得た理由として、60年代後半に『ウルトラQ』から『ウルトラセブン』を見た子どもたちが、年齢が上がるにつれ、よりシリアスなドラマと、さらに高度なSFを求めていたことが挙げられていた。

なるほど、『なぞの転校生』にはよく当てはまる。中学校を舞台にして身近にする一方SFの中身は異次元、超能力、核戦争と、より複雑で高度で、そして深刻になっている。

興味深いのは、『なぞの転校生』では恋愛が物語の隅に追いやられていること。山沢典夫に対する香川みどりの気持ちははしかのようにほのかな思いでしかない。それに比べると『セブン』は、子ども向けとしては異常なほどダンとアンヌの関係を執拗に描く。金城哲夫がほんとうに書きたかった作品は、ひょっとすると恋愛ドラマだったのでは、とさえ思われてくる。

『セブン』末期の作品は、アイデアの宝庫。その分、30分ではまとまりきらないほど。「ノンマルトの使者」には、侵略者としての地球人という発想、海にたたずむ少年という風景、さらにはホラー映画の結末のような仕掛けまで盛り込まれている。

もちろん、怪獣はそれぞれ個性的で、戦闘場面も毎回違う。子ども向けらしく、『闇に光る目』のように子どもに視点を置いた作品もある。そこへ男女の恋愛まで持ち込めば30分のヒーロー番組に破綻は避けられない。

『なぞの転校生』は、ヒロインを完全に脇役にしてしまうことで、SF作品としての密度を高めることに成功している。そして、無理に相手役にしないことで、かえって若い女優が印象深く残る効果を結果的にもたらしている。今思い浮かべているのは、『未来からの挑戦』で紺野美沙子が演じた西沢響子のこと。


21世紀も近づくころ、小学生、それもおそらくは中低学年向けに描かれたアニメ作品『カードキャプターさくら』では、物語の中心にあるのは恋愛、いや、恋愛なんて大人びて複雑なものではない、「好き!」という単純で率直な気持ち。『さくら』では、魔法も変身も戦闘も、お決まりのネタでしかない。

ここでいう「好き」という気持ちは、ダンとアンヌのような青年男女のあいだにある恋愛関係だけを意味しない。小学生の真剣な恋もあれば、同性どうしの恋愛、大人と子どもほど年齢差のある恋愛まで、何のてらいもなく、さわやかに描かれている。生れた国が違ってもまるで気にしない。

30年のあいだに、世の中も、NHKも、ずいぶん変わった。

70年代の子どもの頭に恋愛がなかったわけではない。「恋の奴隷」「ひと夏の経験」「やさしい悪魔」、それから「ペッパー警部」。妖艶な歌謡曲を口ずさんでいた子どもは、意外なほどませていた。

たぶん、恋愛が変わっているのではなく、その表現が変わっているだけだろう。


8/7/2005/SUN

魔術、芥川龍之介、宮本順子、偕成社、2005

図書館で見つけた芥川龍之介の童話に挿絵をほどこした新しい絵本。童話とはいえ人の心に潜む闇に、いつのまにか目を向けさせる恐ろしい話

芥川の作品はほとんど読んでいない。あまり多くは読みたくない。それでも惹かれるのは、自分にはないものがあるから。

いや、正確には自分の表面にはなく、おそらく似たようなものが自分の奥深くにあるから。それを掘りだすようにして、そして自分の表面とのあいだで擦り切れる不協和音をときどき楽しんでいるのかもしれない。

文字による物語がすべて終わったあとに、もう一枚絵が続く。絵本ならではの余韻が静かな雨音とともに残る。


8/13/2005/SAT

鹿よ おれの兄弟よ、神沢利子文、Gennadiy Dmititriyevich Pavlishin絵、
福音館書店、2004

殺しながら生きる命。開きなおるのでもなく、それを忌避したり、懺悔するのでもない。したところで何も変わりはしない。だから、受け入れながら、耐えていく。その耐えていく苦しみと、奇妙なことにそれに伴う喜びを、人間は歌にしたり、物語にしたりして、伝えてきたのだろう。

この絵本を読んでいたら、まえに読んだアメリカ・インディアンの詩集を思い出した。人間がまだ自然と密着していた時代の息吹が感じられる。それを民話の再話ではなく、創作として、しかも現代の日本語で表現する神沢の文章に驚く。

この主題は、思いつきではなく、もともと彼女は、こういう気持ちを大切にしていて、いつか作品に注ぎ込もうとあたためていのだろう。『くまの子ウーフ』(井上洋介絵、ポプラ社、1978)の一話「ちょうちょだけになぜ泣くの?」では、繰りかえされる食物連鎖にとまどいながら、耐えなければならない生命について、子どもにもわかるような語り口でつづる。それだけに、こちらのほうが恐ろしくもある。

『くまの子ウーフ』を読んだのは、NHK教育テレビでアニメ作品を見てから。最近、小学生向けの詩集を読んでいて、「おおきなけやき/はらっぱのけやき」ではじまる詩「おおきなけやき」の作者が神沢利子であることを知った。

この歌は、田中星児の声で「風をみちゃった僕」(井出隆夫作詞、福田和禾子作曲)や「風のバラード」(小坂忠作詞作曲)とともに、ずっと心の底に残っている。ギターの音に郷愁を感じるのは、ここに原点があるかもしれない。

一つ、残る疑問。狩人は鹿を捕らえ、歌を捧げる。では、人間を犠牲にして生き残る人間に、歌う歌はあるだろうか


8/14/2005/SUN

完全無欠の東映ヒーロー100、竹中清編、徳間書店、2004

懐かしのアクション・ヒーロー vol.1, vol.2, vol.4、コロムビア、1994

ウルトラマンの本を探して、図書館の映画の棚へ。偶然見つけた、いわゆる戦隊ヒーローを集めた図鑑。眺めるだけと気軽に借りて帰ったら、これが始まり。ウルトラマンに加え、ザビタン、イビル、ガブラの「アクマイザー3」三人の絵をほとんど30年ぶりに描きすっかり忘れていた「ゴレンジャー」の歌、「真っ赤な太陽 仮面に受けて」を聴き、戦隊ヒーローの歴史をたどることになった。

ビデオで見ていては切りがない。図書館にはテレビ・ヒーローの主題歌を集めたコンパクト・ディスクもある。意外なことに、これが好評。見得を切った写真を眺めて、威勢のいい歌を聴けば、ほとんど満足できるらしい。手には「カッコいいおもちゃ」を握りしめている。

ウルトラマンと比較すると、円谷家という重圧がないぶん、仮想作家、東映企画部の別名でもある八手三郎は自由奔放にみえる。

歴代の変身ヒーロー、戦隊ヒーロー、メタル・ヒーローなどを見ていると、物語や構成いってみれば世界観もギャグからシリアスまでさまざまある。直球の勧善懲悪ばかりというわけでもない。悪から寝返り悪と戦う者もいる、正義の味方を邪魔する別の正義の味方もいる。

遡ると、過去には女性や遠い外国の人を見下した先入観で描いている場合も少なくない。その一方、時代を反映させながら、内容は変わりつづけていることも見逃せない。太っていて、武道が得意で大食漢という定番のキャラクターは、最近ではまったく見かけなくなった。

最初の『ゴレンジャー』では、女性はモモレンジャー一人だけ。人数も配色も、まさに紅一点。ところが最近では、女性が複数の場合もあれば、ピンクばかりでもない。メカを操る係が女性というのも、近ごろでは珍しくない。

歴代の作品のなかには、テレビや子どもの世界の外でも話題になったものもあれば人気が出なかった駄作もある。二年続いたのは最初の『ゴレンジャー』だけ。子どもの側からみると、熱心に関わるのは就学前後の一、二年のことなので、どの作品にめぐり合うかによって、ヒーローとの付き合い方はだいぶ変わる

いま放送されている番組もたくさんあるし、レンタル店に行けば、昔の番組を親子で楽しむこともできる。しかしそれは、親の思い入れに子を引きずり込んでいるような気もする。やがて、それに気づいたとき、見せられたから好きなのか、やっぱり自分で好きなのか、考えるときもくるだろう。

音楽だけ聴いたり、宣伝のないビデオだけを見ていれば、「見たもの乞食」との間に無益な衝突もなく、楽しい時間が過ごせる。『懐かしのアクション・ヒーロー』シリーズは、それぞれの決めゼリフや、敵役の声まで入っていて、確かに画面がなくても楽しい。

ヒーローも主題歌もたくさんある。でも、歌っているのは、ほとんどすべて、水木一郎、ささきいさお、子門真人、ヒデ夕木、それから堀江美都子の五人。

ささきいさおは、私が狂喜した「ゴレンジャー」から、目の前の子どもが乱舞する「デカレンジャー」まで、衰えるどころか凄みを増して歌っている。彼らこそ、不滅のヒーロー。


8/17/2005/WED

夢路いとし・喜味こいし(お笑いネットワーク発 漫才の殿堂)、ポニーキャニオン、1996

エド・サリヴァンpresentsザ・ビートルズ ノーカット完全版1(Ed Sullivan presents the Beatles, 1964)、ビデオアーツ、2003

今年の夏休みは、関西方面へ旅行することにした。大阪弁の予習に漫才のビデオを借りる。大阪弁は、『さくら』のケロちゃんと言っても、子どもは少し不安な様子。まったくわからない英語より、端々に違う音の入る言葉のほうが、不思議で不気味なのかもしれない。だからこそ、直に行ってカルチャー・ショックを受ける意味がある。

話の速度もネタも、万人向けの「いとし・こいし」。まだ髪が黒く、メガネもかけていない時代から、白髪混じりになるまでの舞台。年をとるにつれ、喋りもネタも、過激になる。「過激シルバー」といえば、日刊ゲンダイ連載の四コマ漫画。どちらかがどちらかを真似しているのか、よく似ている。湾岸戦争と夫婦喧嘩を混ぜかえす最後の演目は、かなりエグイ。

『エド・サリヴァン・ショー』は、ビートルズより、エド・サリヴァンがお目当て。グッチ裕三扮する江戸川サリバンやBilly Joel,“Tell Her About It”のビデオに出てくるそっくりさんですでに馴染みがある。どちらもほんとによく似せている。

旅行へ行くと、案外テレビが面白い。違う場所へ行くと、番組も宣伝も違う。思いがけない再放送に巡りあわせることもある。

1964年のアメリカのテレビ広告も面白い。ヒゲ剃り石けんの比較広告、重ねたホットケーキにたっぷりのホイップクリーム。色がなくても、まぶしい。戦争を知らない私でも、戦争を知っている両親に高度成長期に育てられたためか、21世紀になっても、まだそう感じるところがある。

昔、テレビは、白黒だったんだ。少しずつ昔の話をしてみる。

色がなかったことは伝えられても、あのホットケーキをどんな気持ちで見ていたのか、なかなか伝えにくい。無理して話しても伝わらない。話すことが伝えることとは限らない。


8/25/2005/THU

いちばん好きな絵本はど〜れ? 〈日本絵本賞〉受賞絵本原画展、
世田谷文学館

  • さくら子のたんじょうび、宮川ひろ文、こみねゆら絵、童心社、2004
  • きつねのかみさま、あまんきみこ文、酒井駒子絵、ポプラ社、2003
  • せとうちたいこさんデパートいきたい、長野ヒデ子、童心社、1995

こみねゆらの原画を見るために、世田谷文学館へ。印刷された絵本ではわからない細やかな筆づかい。もう一つ、絵本と原画展と違うのは、文字のない絵が飾られているところ。

ほお杖をついて、車窓にもたれているさくら子の絵は、文字があるページより少女の憂いが伝わってくるように感じる。向き合う母親の不安も。

母親が秘密を明かすとき、さくら子にはもうわかっていた。告白は秘密の暴露と違う。すでに気配で伝わっていることを言葉で追認する心理的な作業ではないか。告白される側からすれば、「わかっている、みなまで言うな」と言いたくなるようなものではないか。そうでない告白は、語る側の思いが深いほど、不幸なことに、秘密の暴露や事実の押しつけになってしまう。

言葉で伝えることは大切。でも言葉を伝えるまえに気配はすでに伝わっていることを知ることは、もっと大切かもしれない。

『さくら子』は、作者はちがっても、少女の不安と希望を描く点で、こみねが絵を添えた末吉暁子『雨ふり花 さいた』や、『星に帰った少女』にも通じる。絵本やファンタジーは、深刻で直截になりがちな題材を朝もやのような幻想にやわらかく包んで伝える。

『きつねのかみさま』は以前から探していたあまんきみこの作品。酒井駒子の名前は知らなかった。なわとびを跳ぶ幼女。一瞬をとらえた絵。動きのなかでという意味だけでなく、育っていく時間のなかで、という意味でも。

もうこういう時期は過ぎてしまったことに、一枚の絵を見てふと気づかされる。気配を伝えていくためには、こちらの態度も変えていかなければ。

ほかに気に入った作品。長野ヒデ子『せとうちたいこさん』は色鉛筆でデパートの隅々まで細かく描いてある。ナンセンスな展開やダジャレの繰り返しとのアンバランスが生む面白さ。


8/26/2005/FRI

ぼくが弟だったとき、森忠明文、牧野鈴子絵、秋書房、1985

安寿と厨子王、森忠明文、堀泰明、 「京の絵本」刊行委員会・同朋社、1999

グリーン・アイズ、森忠明文、狩野富貴子文、小峰書店、1997

ホーン岬まで、森忠明文、藤川秀之絵、くもん出版、1990

小さな蘭に パパの大切な人たちのこと、森忠明文、クニモトミチコ絵、
ポプラ社、1996

帰宅途中に立ち寄った古書店で、森忠明の古い作品を偶然、見つけた。どきりとする書名。こういう作品が森にあるとは知らなかった。この一冊をきっかけにして、未読の森作品をまとめて読んでみることにした。

森忠明は、私童話作家。自分の子ども時代にこだわって作品を書きつづけている。『ぼくが弟だったとき』は、幼い頃に姉をなくした体験をもとにした小説。娘に宛てたエッセイ『小さな蘭に』によれば、姉が亡くなったのは森がまだ5歳のときという。


森忠明の作品には、はじめから喪失感がある。自分が自分であることに気づく前から自分を何かを失った存在とみている。一口に喪失感といっても、大人になってからや、大人になる途中で大切なものを失う場合と、はじめから何かを失っているのでは、受け止め方も表わし方も、きっと違う。

姉を失った森が、姉を犠牲にして生きのびた『安寿と厨子王』を再話する。これも少し額縁の違う私小説の一つかもしれない。作品と作家は、別の存在であり、なお離れられない関係にある。何度も再話されている有名な昔話を読むと、森忠明という作家がどのような気持ちでこの伝説を自分の言葉で書きなおしたのか、想像せずにはいられない。


森忠明を最初に読んだのは、確か高校二年生の頃。NHK少年ドラマシリーズの原作にもなった『きみはサヨナラ族か』(金の星社、1977)。ドラマの方の記憶はない。ほかの原作本と並んで置いてあったので、手に取ってみた。それから何度も読み返している。

ちょうど同じ頃、『寺山修司青春作品集』(新書館、1983-1984)を続けて読んでいた。「ぼくがいつまでも/わすれられないのは/ひとり/という名のとりです」で終わる短い詩「ひとり」に似たかなしみを感じとっていたのかもしれない。森が寺山のそばで脚本や詩を書いていたことは、ずっと後になって知った。

 小学生時分から「意欲のない森」という烙印を押されつづけてきたぼくだが、「最愛の観客たちが去った地点で意欲をだして何になる」と不貞た言葉を返したい。(「はぐれたときに歌う歌」『僕が弟だったとき』)

彼も「終わっている世界」に生きている一人。そういう人間が新しい世界のはじまりに気づくのは、新しい生命に出会うとき。


『小さな蘭に』は、離れて暮らすようになってしまった一人娘へ宛てる形で、これまでの作品にこめられた人びとへの思いが刻まれている。また、忘れがたいそうした人々から森に宛てられた手紙も転記されている。『サヨナラ族か』にも登場する川原先生からの手紙を読むと、実物の川原先生が、物語の中の中林画伯に近づいているのがわかる。

娘に宛てて書く意味は、私童話作家、森忠明にとって小さくはない。「ジャック・シャルドンヌという人の随想集」から森が引用している言葉。

 男の多くは唯ひとつの愛をしか知らない。娘に対する愛がそれである。しかもそこにはあらんかぎりの愛がその劫苦とともにこめられているのだ。(「ポロ」『小さな蘭に』)

どきりとする、できれば知らないままでいたかった箴言。シャルドンヌという人は、どのような思いからこの箴言を書いたのだろう。


思い出してみると、はじめて自分が子どもを授かり、その子が娘だったとき、それまで失恋したすべての女性を見返したような気がした。それは、結婚したときよりずっと強い気持ちで、自分でも否定したくなるような奇妙な気持ちだった。

そのとき心のなかで、“I've Been Waiting for You”という、セリーヌ・ディオンの“To Love You More”の一節が流れていた。

一人の異性の生命を掌握したという征服感だろうか。すこし違う。自分の思いどおりの女性を育てられるという“プリンセス・メーカー”の妄想だろうか。半分はあたっているかもしれない。好きな服を着せ、好きな絵本を読み聞かせ、好きな場所へ手をつないで歩きたい。

「あらんかぎりの愛と劫苦」という表現は、確かに近い気がする

自分が人間であることも、男であることも自覚する前に女の姉を失くした喪失感が、父親なら誰でももつだろう娘に対する特別な思いを、さらに特別なものにしているのかもしれない。


この特別な思いは、血のつながりとは関係ない。父と娘という社会的な関係の問題。例えば光源氏の若紫への思いを考えてみても、血のつながりがないならば、愛も劫苦もさらに深くなる。映画『野生の証明』(原作、森村誠一)での、父、高倉健から娘、薬師丸ひろ子への思いにも同じことがいえるブラック・ジャックとピノコの関係についても。

森忠明の作品には、癒されない喪失感とともに、逃げ切れない孤立感がある。

 幼児期からこの齢までとぎれることなく、低く通奏されてきたラメントが、また喪失と孤立の物語を誘いよせてしまったようだ。(あとがき、『ホーン岬まで』)

幼い頃の喪失感を文学表現に昇華した作品というと、森山啓『谷間の女たち』を思い出す。森山は幼くして母を自死で失い、長じてからは娘や親友も失くした。その一方で、彼は青春時代にめぐりあった妻とは添いとげた。『谷間の女たち』には、喪失感とともに、それに耐えて生きていく幸福感にあふれている。

『きみはサヨナラ族か』は、その対象年齢からはずっと離れていたのに、とりつかれたように読み返した。自分自身で英語劇に脚色しなおしたりもした。それはきっと、作品にたちこめる言い知れない孤立感に共鳴していたからにちがいない。

二十年を経て、「愛と劫苦」の感覚も共有することになるとは、もちろんそのときには思いもしなかった。


8/27/2005/SUN

むぎわらぼうし、竹下文子文、いせひでこ(伊勢英子)絵、講談社、1985

雪女、小泉八雲、平井呈一訳、伊勢英子絵、偕成社、2000

1000の風 1000のチェロ、いせひでこ(伊勢英子)、偕成社、2000

夏のはじめに読んだ絵本を読みかえす。伊勢英子の名前は、クリスマスにもらった『絵描き』で覚えた。

『むぎわらぼうし』は、過ぎてゆく夏を思う。破れた麦わら帽子を見つめて、るるこは、時間は流れたきり戻らないことを生まれてはじめて知る。

伊勢英子の作品にも、森忠明と同じように幼い心に広がる喪失感がある。過ぎていく夏を惜しむ気持ちは、誰もが持つ自然な喪失感。『むぎわらぼうし』の文は彼女自身によるものではないけれども、この作品をきっかけにして自分のスタイルを見つけられたと話す記事を絵本の雑誌で読んだことがある。

『雪女』は、夏に読んでも寒くなってくる。伊勢の絵には、空や雲、雪や氷のように水を映す色が多彩。水や空の色を通じて、凍りつくような苦しさや澄みきったすがすがしさを表している。


文も彼女が書いた『1000の風』に込められているのは、やり場のない喪失感だけではない。そんな気持ちを抱えている人は自分以外にもいる、そんな人たちと心を通わせることでかなしみは少し軽くなる。少年は、るるこより大きくなって、時は戻らなくても、心は残ることを知る

少年という姿も、大切なモチーフ。『絵描き』でも『1000の風』でも、言葉は女性ではなく少年に託されている。少年とは何か。女が描く少年と男が描く少女では、何が違うか。少年性、少女性というと、はじめから倒錯した性癖と片付けられることが最近では多い。誰もが通り過ぎ、大人になれば、別の立場から過ぎていく姿を眺めるこの時期についてもっと真面目に考える必要がある気がする。


さくいん: いせひでこ


ところで『1000の風』の中で、震災後の神戸の街だけは絵ではなく写真になっている。描けない、描いてはいけないのかもしれない、と伊勢は書いている。この言葉を読んで大道あや『ヒロシマに原爆がおとされたとき』(ポプラ社、2002)を思い出した。

爆心地の様子について、「これはもう描けん」と何十年過ぎても語る体験者。それでも彼女は描いた。それはもう絵とは呼べないような絵。毎年新しい戦争秘話が発掘されるのは、隠しているからではない。語るに語れない思いが、言葉にもならない言葉や絵にならない絵になって、やがて人間の奥底から静かにあふれ、こぼれていく。その「時」が訪れる前に、無理をして語れば、かえってすべてが嘘になる。そんな風に思う。

あえて今は描かないことを選んだ絵描きには、いつか、描く「時」がくるかもしれない。


この夏名前しか知らない、けれども忘れられない人を見かけた。名前以外の近況を尋ねるどころか、今の名前さえ聞けないまま、黙って通り過ぎた。それでよかったと思う

そっとそこにそのままで静かに輝くべきもの
けっしてもう一度この手で触れてはいけないもの

オフコース「夏の終り」という歌の一節(小田和正作詞作曲、『SELECTION 1978-1981』、1981)。

偶像とはある時代ささやかな希望を映す幻影でしかない

その夜、昔よく聴いていた小椋佳「時」にあった、「時に長さがあるなんて誰が言ったのですか/僕はあの日の君の姿いまも見つめることができるのに」という言葉をふいに思い出した

忘れるというのではないし、無理に思い出すというのでもない。静かに記憶のなかに残る輝き。


心のふるさとと呼びたい古都へ行った。深い森、深い夜の中に何百年も前の建物が灯りに照らされ浮かび上がり、静かに輝いていた。古都へ旅をしたのは、日本の歴史をたどるためではない。家族の歴史を確かめるため。旅の終わり、ふいにこぼれるように静かに記憶に残る名前を聞いた。そのとき、旅の目的は果たされたように感じた。

ふるさとは深いしじまに輝きだす

これは荒井由実「晩夏」(『14番目の月』、1976)。晩夏は挽歌との掛詞ではないか。副題には「ひとりの季節」とある。

静かに輝いている記憶を確かめる旅。大仏も見たし、阿修羅も見た、お城の天守閣にも登り、お祭り広場では太陽の塔を見上げた。衣がけの柳を知った。うどんすきと、お好み焼きも食べた。民族学博物館では、駆け足の世界旅行もした。いつもは見ない響鬼も見たし、飛行機のなかでピカチューも見た。

ピカチューは、初めて行った映画館でも見た。王女様は、聞き覚えのある菊池桃子の声だった。

新しい思い出が輝きだす。これで、今年の夏休みも終わり。