つぶやき岩の秘密、新田次郎原作、鎌田敏夫脚本、柴田和夫音楽、佐藤和哉演出、佐瀬陽一、菊容子、美川陽一郎、陶隆、厳金四郎ほか出演、NHKソフトウェア発行、アミューズピクチャーズ発売、2001

つぶやき岩の秘密、新田次郎、新潮社、1972


つぶやき岩の秘密

NHKテレビで1970年代に放映された『少年ドラマシリーズ』のビデオが、図書館にあることに気づいた。このドラマは石川セリが歌う主題歌「遠い海の記憶」が収録されたアルバムを買って以来、見なおしたいと思っていたので、早速借りてきた。元のドラマを見直してみると、今度はずっと前に読んだ原作を読みなおしたくなった。探せばどこかにあるはずだけれど待ちきれず、図書館で借りてきた。

ドラマの放送は、1973年7月と1974年3月。私はまだ小学校にも入っていない。私の記憶は、本当に最初の放映時の記憶だろうか。あとで読んだ原作や、80年代後半、大学生の頃に見たビデオの記憶と混ざっているに違いない。もっとも、中学生のときに原作を読もうと思ったくらいだから、最初のときも見ていたことは間違いないし、そのときの印象がかなり強いものだったのだろう。

こうして見返してみると、記憶していたよりもずっと緊迫した雰囲気がある。映像は、ビデオテープではなく映画フィルムで撮影されているためかほの暗い。小林先生の部屋が荒らされている場面や紫郎のかばんを見つける場面で使われるフラッシュ・バックは市川崑が『犬神家の一族』で使った手法を思い出させる。ジャズやフュージョン、おそらく当時クロスオーバーと言われていた背景音楽も緊張感と暗さをひきたてている。


主人公の紫郎は小学六年生。しかし、この物語に学校の場面がほとんどない。友達さえでてこない。志津子は紫郎の幼なじみとして配置されているけど、紫郎に対して少し子どもすぎる。実際のところ、小学校でも高学年では女子のほうがませているくらいが普通ではないだろうか。

紫郎がどんどん変わっていくのに、志津子は子どものままでいることが、少し奇妙に感じられた。一話25分、全6話という制約のため、焦点を紫郎だけに絞っているせいもある。

もっとも、こんな風に内面的な成長に一人一人で大きな差があるのもこの頃の特徴かもしれない。しばらくあとには、志津子も彼女自身が出会う物語を通じて、すっかり大人になり紫郎から離れていくかもしれない。ともかく、紫郎はいつも一人でいる。

原作を読み返してみると、志津子は原作に登場しない。やはりテレビ・ドラマという構成上、必要とされた役柄だったのかもしれない。実際、新田次郎の作品には、この作品のように、内省的で逆境を一人で潜りぬけようとする孤独な冒険者がしばしば主人公となる一方で、異性の相手役はそれほど重要な位置づけをされていない場合が多い。


新田の作品をすべて読んだわけではない。中学三年生の頃、オレンジ色の背表紙の新潮文庫で『孤高の人』『栄光の岩壁』『銀嶺の人』『アラスカ物語』など、これまで読んだいくつかの作品からの感想。物語の最初から男女の三角関係を設定している『珊瑚』は異色といっていい。

物語の鍵は、日本軍が海辺の洞穴に隠していた金塊。手塚治虫『ブラック・ジャック』にも似た話、「とざされた記憶」(1974年、新書第2巻、文庫第11巻)がある。70年代にはこういういわゆる戦争秘話がまだ真実味をもって流布していたような気がする。無理に役割を当てはめてみると、ヒゲおやじが白髭さん、アセチレン・ランプが亀さんにあたるだろうか。


紫郎には、両親の記憶がない。面影もないはずの父や母の亡霊が彼を海に呼び寄せ、孤独にさせた。両親はずっと海をさまよい、紫郎の心も定まらない。物語を通じて紫郎は、両親の死をはじめて受け止める。理解する

「さようなら、お父さん、お母さん」という台詞は、両親の亡霊に向けられた言葉。こうして、はじめて両親は彼の心の中に居場所を見つけた。そうなるまで何年も、彼は一人でいなければならなかった。

死を理解する、という主題がこの物語にあったことは、忘れていた。たぶん、最初に見たときには、そのことにまだ気づく必要がなかったからだろう。そして、いつかこうして思い出すように、心の奥底深くに埋め込まれていた。

映像と小説。『つぶやき岩の秘密』の場合、二つの作品は、どちらかがよりよいというのではなく、相互補完的な関係にある。どちらかだけでも十分面白い。両方知るとなお面白い


さくいん:新田次郎少年ドラマシリーズ70年代


碧岡烏兎