シキュロスの剣、泉啓子、童心社、2002


シキュロスの剣

図書館の児童書棚、夏休みの推薦書としておいてあった本を何の気なしに手に取り読みはじめたら止まらなくなり、そのまま借りてきた。

主人公は知的で内気、でも運動が苦手、そのせいで学校ではいじめられている。この主人公像は、森忠明『きみはサヨナラ族か』(金の星社、1977)によく似ている。『きみはサヨナラ族か』も、小学校高学年を対象にした児童文学。閉じこもりがちないじめられっ子がさまざまな事件を通じて自分を強くし、他者に対して自らを開いていくという構成でも二つはよく似ている。


二つの作品を比較すると見逃せない違いもある。その違いは、筋書きや登場人物の造詣の違いですまされるものではない。一方は1977年、他方は2002年という発表した時代の違い、つまり物語の背景となっている子ども社会の違いにあるように思われる。

まず、家庭環境についてみると、両親が不仲であるところは同じ。ただし『サヨナラ族』では父はさえない会社員、母親は活発で家を飛び出し喫茶店で働いている。『剣』では父は元甲子園球児、今は24時間働き詰めでかなりやり手のビジネスマン、母親はかつてはいろいろ夢をみていたものの、今では家庭に取りのこされ息子の教育だけが生きがいの典型的な教育ママ。

『サヨナラ族』の主人公にとって父親と暮らす家庭は、会話のない孤独で、見方を変えると放任状態でもある。他方『剣』の家庭は、母親に一挙手一投足を監視される場所で会話はあってもぬくもりはなく、家族はそれぞれ孤立している。


家庭以上に違っているのは、学校と塾。『サヨナラ族』では、塾に行っている子どもはごく少数で、中学受験も特別なもの。それが『剣』では、ほぼ全員が塾へ行き、主人公はなんと週五日も塾へ通っている。勉強をするのも塾、友だちとおしゃべりをするのも塾やその行き帰り。物語のなかでも、夜も十時を過ぎて、塾帰りに立ち寄るコンビニエンス・ストアが重要な舞台になっている。

生活の大半を占める塾に対して学校は、ドッジボール大会や給食時間に象徴されるように子どもにとっては息抜きの場に過ぎない。もっとも主人公にとってはクラスメイトの息抜きが嘲笑されいじめられる格好の機会でもあり、学校は息苦しい場所。この点ではふたたび『サヨナラ族』と共通する。


そして、なによりもちがうのは、物語全体に流れている空気。『サヨナラ族』では仮病をつかって学校という日常を離れた結果、それまで知らなかった人々に出会い、世の中の動きを知り、それをきっかけに自分と学校生活をみつめなおしはじめる。内気でいじめられっ子の主人公が、パジャマのまま病院を抜け出して街を冒険する展開は、夏休みの読書に似合うさわやかささえある。

これに対して『剣』は、児童暗黒小説とでも呼びたくなるような陰鬱な雰囲気が全体を覆っている。暴力的ないじめ、母親との口論がエスカレートした結果の引きこもり、万引き、そして物語の鍵となる刃物と「儀式」。刃物を崇める儀式という場面では、神戸での児童殺傷事件が思い出されて読み進めるのが怖くなったくらい。

『サヨナラ族』に描かれた70年代の子どもの世界が明るかったというつもりはない。そこでも主人公は父親から「いい学校を出ていい会社に勤めなければオートバイを乗り回すようになって世の中に迷惑をかけるんだ」と説教されている。

すでに鷲田清一の言う「前のめりの生活」が子どもを侵しているし、受験組は悩みもせずそこに飛び込もうとしている。そこに、主人公のとまどいと、読者の共感が生まれる。

『剣』に描かれている世界はより悲観的。より暴力的で、よりストレス過剰。疲れきった登場人物たちは、もはや孤立して生きることに諦めきっているようにもみえる。


確かに物語の結末に希望が見えないわけではない。それでも、読後にやりきれない喪失感や無力感のようなものが残る。

物語として面白いかどうかといえば、十分面白い。しかし子どもには薦めたいとは正直なところ、今は思わない。できればこうした物語に出会わない暮らしを送ってほしいと思うのは、自分がまだ子どもの世界にナィーブな幻想を抱いているからだろう。

そんな幻想は捨てなければいけないのかもしれない。この物語を読まずに生きていくことはできても、この物語がほんの一部を切り取ったにすぎない現実そのものを避けて生きることはできないのだから。


碧岡烏兎