幼児期――子どもは世界をどうつかむか、岡本夏木、岩波新書、2005


久しぶりに読んだ新書。新しい本にも関わらず、読みながら問題のとらえ方や提起の仕方、ひと言で言えば文体に不思議な懐かしさを感じた。懐かしさの源を確かめるため、書棚から箱入りの大きな本を出してみた。松田道雄『育児の百科改訂版』(岩波書店、1987、初版は1967)。

医師である松田の書いた育児書は、乳幼児の身体や病気、食生活について多く書かれている。岡本は、発達心理学の立場から、しつけ、遊び、表現、ことばについて書く。子どもの自立する力を重視する点、自然や人間との対話が子どもを人間らしく育てるといった基本的な考え方で、二人は共通している。


さらに言えば、読んでいると、岡本の基本的な考え方や文章の書き方に、丸山眞男『日本の思想』(岩波新書、1961)に流れる空気を感じる。戦後啓蒙主義と呼べるような思潮の雰囲気。その意味で、本書は非常に岩波新書らしい。

もう少し具体的に、三者に共通しているものは、現体制と、そこに至った歴史的経緯への懐疑と改革への意志、そして個人の内面にある倫理観や創造性の重視。前者はひと言、民主主義と言い換えることができるだろうし、後者は教養と言い換えることもできる

いわゆる戦後知識人、なかでも進歩的知識人と呼ばれる人びとの仕事は、この二つの精神をまさしく啓蒙する面をもつ一方で、反体制という名の奇妙な体制と、読書至上主義に象徴される教養主義を副産物として生み出した。


岡本の観察、議論、主張には、ほとんどすべて同意しながら読んだ。同時に、21世紀になって、繰り返される戦後啓蒙思潮の雰囲気をどう受け止めたらいいのか、とまどう。1961年の『日本の思想』から繰り返し言われているのに、民主主義は根づいていないし、教養をもった人も少ない。少ないどころか、自分自身が民主主義も実践できていないし、教養も持ちえていない

本書のなかに、戦後思想の良質な部分が確かに継承されている。そう思う一方、戦後思想はどこまで人びとの内面に根を下ろしたか、疑問が残る。

戦後知識人の語り方や彼らの主張そのものに問題があったのか。それとも受け止める私のほうの努力不足や力量不足が原因か。それとも、産業化と情報化が、彼らの予想以上、私の許容以上の速度と影響力をもっていたからだろうか。

直感的には、時代がどう変わっても民主主義と教養を繰りかえす岡本の主張に感銘も受けたし、強く賛同もする。しかし現実の問題として、つまり一人の賃金労働者、一人の親として、社会の現状を眺めるとき、本書で促されていることがどれだけ自分に実践できるか、不安というより絶望のほうが大きい。


例えば岡本は、子どもがモノ扱いされるから幼児期が空洞化し、中身のない、空洞化した大人が生み出されているという。それは今にはじまったことではない。60年代に書かれた『育児の百科』でも、すでにそういう指摘がされている。

そういう時代に生まれた人間は、モノ扱いされた人間にモノ扱いされて育ってきたのではないか。そういう私に、人間をモノ扱いしないで育てることが、どうすればできるのだろうか。

その質問に岡本は直接答えてはいないけれども、本書を注意深く読むと、いわゆる戦後啓蒙思想では無視されたというわけではないにしても、強調されていなかったいくつかの点を彼が重視していることに気づく。たとえば、人間の弱さや大人であっても完璧ではない点を彼は肯定する。また、表現の重要性を指摘しながら、表現された作品よりも表現を生み出す過程を重視する。

   過程のもつ楽しみ、あるいは苦しみや努力とが一体化した経験を、時間をかけてより確かなものにしておくという観点を、幼児期の表現活動を見直すにあたって強調したいと思います。(「Ⅲ章 なぜ「表現」か 過程のもつ意味」)

親は完全な人間として子を教育するのではない。もまた不完全で、あるいは、より積極的にみれば成長途上にある人間であり、そのような不完全な存在として子どもと暮らしながら自分自身を育てていく。つまり、過程が重視されるのは、幼児期の表現活動だけではない。幼児と暮らす生活そのものが一つの過程として重視される。そのような立場から子どもをとらえなおすと、子どもは教えられる対象ではなく、共に暮らす仲間、いやそれ以上の存在になる。

   親も先生も子どもも、互いにより人間的な結びつきを実現する生活を目ざしての共同者であり、「戦友」と言えるでしょう。(Ⅰ章 なぜ「しつけ」か 生活者同士としての親と子)

このような考え方が戦後思想になかったわけでは、きっとない。しかし敗戦という負い目があったり、また社会の大部分が急速な成長期にあったりしたために、大人は社会の立派な成員である、そして子どももやがて立派な社会人となるべく教育される、という、やや型にはまった考え方に傾いていたかもしれない。だからこそ啓蒙という呼ばれ方もしたのだろう。

中島敦が参照されているように、思想よりも文学やテレビ・ドラマのほうが、おっちょこちょいでも気立てはいい、失敗もするけれど人間として尊敬される、そういう親や教員の姿は描いてきたかもしれない。

成熟した社会では露骨な上昇志向は少なくなる一方、虚無感や徒労感が漂う。子どもと暮らすことについても、予測不能な未来に子どもを送り出す不安の方が先立つ。

しかし、そのような考え方じたいが、子どもを未来の社会の担い手としてしかみない大人からの見方に染まっていることを、少し懐かしい文体の新書は教えてくれる。


そこから、「内なる他者」としての幼児期、という本書の結語も、深い意味をもつことがわかる。幼児期を過ごさずに大人になる人はいない。ただし、誰もが帰りたくなるような幼児期をもっているわけではないし、それどころか幼児期は遠い彼方に霞んでいる場合が多いのではないか。それを見つけ出すことも、やさしいことではない。

見つけ出した「内なる幼児」は育てる対象ではない、ましてや、ただ懐かしんだり、嫌悪したりするモノでもない。

子どもは、岡本の言葉を借りれば、「人間的な結びつきを実現する生活を目ざしての共同者であり、『戦友』」なのだから。