中島敦が第二次大戦中、サイパン、ミクロネシアから家族に宛てた絵葉書。中島は、日本語教育を推し進める教科書を編集するために現地に駐在していた。中島が横浜にゆかりのある人とは知らなかった。女学校で教鞭をとっていたという。
中島敦というと、高校の教科書で読んだ「山月記」の漢文調の印象が強い。子どもたちに宛てた手紙ではときどき語尾に「だぜ」など混ぜるくだけた口語体。なかには抒情詩のような文章もある。
こんや は まん月
海岸のさんぽに行くと
とても きれいなんだけれど、
ぼく は まだ少し びやうき
なので 行かれません。
南洋の月は、東京や
横濱の月よりも
ずつと ずつと 明るい
のです
九月六日の夜
縦書きのまま引用したくなる文章。本書では元の絵葉書も表裏写真で添えられていて、当時の様子と中島のおだやかな筆跡も見ることができる。
解説で詳しく書かれているように、妻や友人宛ての手紙では、一方で現地民の生活を圧迫しておきながら、他方で文化政策と称して日本語を強要する不合理な植民地政策に対する中島の痛烈な批判がみえる。もちろん、彼でさえ現地民への偏見がないわけではなく、また太平洋戦争の開戦には歓喜していて、置かれた環境から完全に脱しているわけではない。
むしろ、それゆえに家族だけに漏らした言葉のなかに彼なりの世の中の見方がよく表われているとも言える。始まったときからこの戦争は負けると思っていたなどと、終わってから得意気に語られる言葉よりも、はるかに真実味がある。
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