君たちはどう生きるか(1937)、吉野源三郎、『君たちはどう生きるか』をめぐる回想、丸山眞男、岩波文庫、1982


書店で水谷三公『丸山眞男――ある時代の肖像』(ちくま新書、2004)を立ち読みしたとき、隣にあった香山リカ『私の<愛国心>』をふと手に取り、こちらにも丸山眞男がとりあげられていて驚いた。引用されていたのは『君たちはどう生きるか』に丸山が寄せた文章。読んだ記憶はあるものの、中身は忘れていたので、古書店で文庫を買いなおした。

原作を読んだ記憶はある。たぶん小学6年生の頃。通っていた図書館の近くに豆腐屋があった。その後も豆腐屋の前を通るたびに本書のことを思い出していたので、『君たちはどう生きるか』イコール豆腐屋が出てくる話、とだけは覚えていた。細かい内容はすっかり忘れていた。

丸山の解説を助けに再読してみると、1937年という緊迫した時代に個人の自由な精神を訴える作品が書かれた意義について考えさせられる。戦中版と戦後版を仔細に比較して、時代の空気が反映されている戦中版をよく理解することが著者の勇気と倫理観を伝承することになる、という主張は、思想史家、丸山眞男の面目躍如といえる。


それでは、『君たちはどう生きるか』に感動を覚えたかというと、感心はしたけれど、引き込まれるような感動はなかった。読みながら、はじめて読んだときにも同じように思ったことを思い出した。

丸山は、本書を読んだ当時すでに「おじさん」に近い年齢だったのに、とうに過ぎた「コペル君」になったつもりで読んだと書いている。そして富裕な実業家の息子、水谷君の姉に違和感を覚える、とも書いている。

私は、誰よりも「おじさん」に違和感が残る。各章でコペル君の体験や思索が語られた後、「おじさんのノート」が添えられる。どの章を読んでも、私はどうしても「おじさん、あんたはどうなんだい?」と聞きたくなってしまう。

天降り的に「命題」を教え込んで、さまざまなケースを「例証」としてあげてゆくのでなくて、逆にどこまでも自分のすぐそばにころがっていて日常何げなく見ている平凡な事柄を手がかりとして思索を押しすすめてゆく、という教育法

本書が採用する話法について、丸山はそう言うけれど、私にはおじさんこそ、「天降り」的な存在に思えてならない。


作品の中で、「おじさん」はコペル君の母親の弟という以外、ほとんど実体がみえない。「おじさん」はあくまでも物語の外側にいる人物であり、彼を中心に本書を読むのは、おそらく間違った読み方なのだろう。

また「おじさん」を著者吉野の投影とみるなら、寡黙で自分を表に出さずに、信念を行動で通した点で、二人は共通していると見るべきかもしれない。でも、それは丸山の解説によってはじめてわかること。吉野を個人的に知らない私に、おじさんと吉野を重ねることは、ましてはじめて読んだときには、できないことだった。

いっそのこと「おじさん」を登場させずに、コペル君ひとりで悩みを解決していく物語にしていたらどうだろう。ほとんどの場合、現実の子どもたちは理想的なメンターに出会うことなく、自分で生きる道を拓いていかなければならないのだから。しかしそれでは、今度はコペル君を、ありえないほどよくできた人間に描かなければ、作品が成り立たなくなるのかもしれない。


言葉をかえれば、コペル君が弱さをかかえた人間であるところに、本書の最も大きな意味があるともいえる。昔読んだ記憶の中では、社会の見方をおじさんが啓蒙する前半の場面しか残っていないけれども、大人になって読んでみると、「六 雪の日の出来事」と「七 石段の思い出」が一番印象に残る。もっとも、それは大人になったからではなく、ここのところの私の気分がそうさせるのかもしれない。コペル君の弱さとそれを克服する強さには、丸山も注目している。

けれども、『君たちは⋯⋯』の叙述は、過去の自分の魂の傷口をあらためてなまなましく開いて見せるだけでなく、そうした心の傷つき自体が人間の尊厳の盾の反面をなしている、という、いってみれば精神の弁証法を説くことによって、何とも頼りなく弱々しい自我にも限りない慰めと励ましを与えてくれます。パスカルの有名な言葉にはじまる「人間の悩みと、過ちと、偉大さとについて」と題する「おじさんのノート」(第七章)はその凝縮です。自分の弱さが過ちを犯させたことを正面から見つめ、その苦しさに耐える思いの中から、新たな自身を汲み出して行く生き方です。

このあと個人的な体験はめったに語らない思想史研究者が、めずらしく学問を志した動機を少年時代に遡って語る。その一点だけをみても、「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」は丸山眞男の文章のなかでは特異なものといえる。

回想は多重。彼自身の青年時代の回想が、彼の本書の思い出と作者の思い出へつながる。そして、率直な述懐が読者に対し、自分にも似たような経験はあったのではないか、という回想と思索を促す。


本文で引用されているパスカルの言葉は、『パンセ』の断章、397と409。これらの断章は、内容から想像される「第二章 神なき人間の惨めさ」ではなく、「第六章 哲学者たち」に含まれている。内容は、すぐあとの別の断章に簡潔にまとめられている。

416 要するに、人間は自分が惨めであることを知っている。だから、彼は惨めである。なぜなら、事実そうなのだから。だが、彼は、実に偉大である。なぜなら惨めであることを知っているから。(前田陽一・由木康訳、中公文庫、1973)

人間の弱さと強さは表裏一体。パスカルはこの弱さを強さに変えていく力を、究極的には神に求めていく。パスカルの名前こそ出さないが、吉野もコペル君の母親に次のように言わせている。

人間が知ってくれない場合でも、神様は、ちゃんと見ていて下さるでしょう。

神様が見ているから、惨めさを克服していけるのか。神様が見ていなくても、自分自身がそうしないではいられないから、そうするのではないのか。それを、ひょっとしたら神様は、見ているよ、とときどき教えてくれる、しかも、神の声としてではなく、自分自身の声として

だから、それを神の声という人もいれば、いわない人もいる。最近は、そんなふうに考えている。


さくいん:丸山眞男