ジョルジュ・ラ・トゥール展、国立西洋美術館、東京都台東区

クールベ美術館展、故郷オルナンのクールベ、三鷹市民ギャラリー

三鷹市芸術文化振興財団・三鷹市美術ギャラリー・三鷹市民ギャラリー、東京都三鷹市


二つのリアリスムについて手短に書いておく。5月の連休に行くつもりだった『ラ・トゥール展』へ行ったのは最終日も間近になってから。『クールベ展』も最終日にようやく見ることができた。

ラ・トゥールは聖人を写実的に描く。深い皺のある年老いた使徒たち、ぼんやり眠りに落ちる聖父ヨセフ。彼が住んでいたロレーヌに暮らす老人たちがモデルという。聖人は、使徒やヨセフでさえ特別ではなく、身近にいる人間と変わらない。同じように苦しみ、同じように年をとる。

十二使徒の肖像画の中央に飾られたイエス像は、正直なところ、印象にのこらない。使徒たちのように人間味のあふれる表情には描かれていない。そうかといって、ルネサンス期のように、理想的な表情や肉体でもない。中途半端にみえる。

ラ・トゥールの絵は、いわゆる旧教を擁護し新教を阻む防波堤の役割を担っていた。そう考えると、ラ・トゥールはイエスを人間的に描くことはできなかったのかもしれない。その一方で、現実を冷徹に見つめる画家には、聖人をありえない人間に描くことはもうできなかった。

19世紀のクールベは帝政にも教会にも楯突いた。そして風景は厳格なほど写実的に描いた。しかし自画像にだけはロマン的な雰囲気を残した。それだけが彼のよりどころだったから。

厳格な写実主義を貫くことは、絵画そのものが理想主義へ回帰することを意味する。今回の展覧会の白眉ともいえる「シオン城」。Y字を横にした正確な構図に風景を押し込んでいる。

陽射しも雲も緑の木々も、おそらくはクールベの思うがままの自然であって、実際にその通りだったわけではない。けっして見たままに描いてはいない。描きたいように見て見たいように描いている。

写実主義か表現主義かという区別に意味はない。少し飛躍していえば、思想の世界においても、リアリストかアイデアリストかという問題の立て方には、何の意味もない。

現実を鋭く観察すればするほど、そして、観察した現実を忠実に表現しようとすればするほど、そこには画家、あるいは思想家が求めてやまない理想が浮かび上がる。その逆説に気づかない人だけが、リアリスト対アイデアリストという形ばかりの構図をふりまわす。

ラ・トゥールは、イエスを写実的には描かなかった。彼にその必要はなかったかもしれない。平信徒までを聖戦に駆り立てるために、聖人が人間であることを証明する必要はあったとしても、イエスが人間であることを証明する必要性も、そのつもりもなかったに違いない。敵を利することになるのだから。

同じ神を崇めているはずの人々と殺しあう宗教戦争の時代に、ラ・トゥールはどのような神を信じて、どのようなイエス=キリストを心に描いていたのだろうか。平凡に描かれたイエスから想像するのは、私には難しい。

神は死んだといわれる現代にあって理想的な表情を聖人に託す絵は、教会や寺院で販売されているお札以外に見ることはない。確かにこれまで神と呼ばれていた姿では、それを見つけることはもうできないのかもしれない。

それではクールベ以降、帝政も教会も拒否し、自分だけをよりどころにして生きることで、人々は幸福を得られているだろうか。むしろ現代人は、あちらも行けず、こちらも進めず、行き場のない袋小路に入り込んでいるのではないか。

政治も宗教も拒否し、そして自分自身さえ拒否したい気持ちを抱えながら、それでも、自分の見ている現実を描かなければならないと思う方法で描いている人はいる。彼らは最初に神という名前は持ち出さない。持ち出さないまま何かを描き続ける人もいれば、やがてそれを神の名前に託す人もいる。それは売られているお札の絵とは同じ名前でもまるで違う。

ずっとむかし、谷川俊太郎の「宿題」という詩を詩集『二十億光年の孤独』(1952、『空の青さをみつめていると』、角川文庫、1985)で読んだ。

   目をつぶっていると
   神様が見えた

   うす目をあいたら
   神様は見えなくなった

   はっきりと目をあいて
   神様は見えるか見えないか
   それが宿題

見えなくても詩人は、すでに書いている。私はずっと共感しきれないまま、しかし、この詩を忘れることもなく過ごしてきた。ようやく、その結び目がほどけた気がする。

私にとって問題は、「目をあいて神様は見えるか」ということではない。神は描かれている。至るところで、それぞれの方法で、たいてい名を伏せられたまま

それでは私自身、目を閉じて何が見えているか。目をあけてそれを描けるか。

そちらのほうが私には、いま手をつけたくない、けれどもいずれ片付けなければならない宿題。