烏兎の庭 第一部
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11.19.02

クールベ展~狩人としての画家~、村内美術館、東京都八王子市

クールベ展~狩人としての画家~、井出洋一郎監修、毎日放送、2002


クールベとの出会いは奇妙で、ある意味で運命的だった。高校三年で大学入試模擬試験を受けたとき、世界史の設問に、「『石割り』など写実的な絵を描き、パリ・コミューンにも参加した画家」というような一問があった。世界史は得意科目だったし、文化史はなかでも好きな分野だったのに、クールベの名前はまったく知らなかった。悔しくてすぐ図書室へ行って画集を探した。

いまはどうか知らないけれども、当時、私立大学入試の世界史では、ほとんどクイズとしか言いようがない問題が出されていた。もともとスーパーカーの排気筒数やブルートレインの車両編成などを覚えるのは好きだったから、暗記することは苦痛ではなかったとはいえ、読んだこともない小説や見たことのない建築や絵画の名前を覚えこむのはかなり辛い。

暗記だけで受験勉強を空しく終わらせるのも癪だし、息抜きと暗記の補強をかねて昼休みに図書室で画集や写真集をながめることにした。絵や建築は眺めることができるけれど、小説はそうすることができないので、今でも文学史は知識だけでほとんど読んだことがない。ともかく、そんなわけで文化史は得意分野と思っていたのに、まったく知らない画家を試験で出されたのは相当悔しかった。


図書室で見た絵が何であったか今では覚えていない。クールベ、イコール写実主義という公式だけは受験のためにたたきこんだ。その頃すでに後期印象派への好意をもっていたからクールベの絵を気に入ることはなかった。ただ印象派とは対照的な画風だけは脳裏に焼きついた。

その時はパリ・コミューンとの関わりや、なぜ19世紀に写実主義なのか、という意味も深くは考えなかった。その後、オルセーで「オルランの葬儀」や「画家のアトリエ」を見ることはあったけど、依然として気に入った絵といえばスーラ、ルノワール、アンリ・ルソーなどだった。それでもなぜか、クールベはずっと心に留まっていた。


今回の展覧会で、クールベに対する見方を改めた、というより、はじめて彼に対する感想を確定した。同時に、なぜ自分が画風を気に入っているわけでもないのに、ずっとクールベのことが気になっていたのかもわかった気がした。

今回の展覧会の特徴は、何より企画者の意図が明瞭だったこと。四部に分けられた各章の案内板や額縁わきの解説、壁にピン止めされたクールベの語録も、同じ趣旨で書かれ、また引用されていた。とりわけ興味を引いたのは、「強烈な自我」という指摘。

解説を助けに展示を見ていくと、リアリスムという意味をこれまで充分に理解していなかったことに気付いた。リアリスムというと、ただ対象を見たままに描いた絵と理解していたけれど、そうではない。対象を描いている画家の姿、つまり絵画をとりまく現実が、鑑賞者とキャンバスとの間に立ち現れてくるような絵画のこと。


肖像画でも動物画でも、また故郷の風景画でも、描いているクールベの姿が強烈に感じられる。クールベの絵が厳格に感じられるのは、自我を追及する手段である肖像画や動物画、故郷の風景画だけでなく、息抜きを目的にしたはずの避暑地の海や静物画までもが自我との格闘になっているから。

遊びやゆとりを許さず、単に目の前にある「現実」ではなく、いつも「現実を描く自己」を描いてしまう。その意味で、あまりに生真面目で息苦しさまで感じてくる。

自我の追求をとことん突き詰めた作品が、画家自身を情景の一部に組み込んだ「画家のアトリエ」だろう。ここでクールベは、情景に溶け込んでいるわけではない。溶け込めない現実を承知のうえで、絵の中へ入り込んでいこうともがいている。世界からはみ出した自我を描くという行動によって、もう一度作品世界を通じて現実世界へ自己を引き戻そうとしている。


「芸術のための芸術ではない。絵を描くのは、自由を獲得するためだ」という主旨の引用が掲示されていた。これを読んでから全ての絵を見直した。そうして初期の社会主義思想から実存主義哲学に至る、文字に書かれたのではない思想史を体感した気がした。

思い出してみると、クールベの名前は知らなかったけれども、彼の絵を知らなかったわけではない。高校二年の修学旅行。倉敷の大原美術館で名前も知らずに買った絵葉書のなかに、クールベの描いた海の絵があった


さくいん:ギュスターブ・クールベ



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