カウンタック・リバース――作品としてのエッセイ


まずはまえがき。しばらく前から作品とは何か、ということを考えてきた。森有正が晩年に記した日記に引用されたプルースト『失われた時を求めて』を読み、作品とは何か、ということがわかってきた気がしている。そして、自分でも文章の作品を書こうと決意をもちはじめている。その気持ちを確かめるために、いまは無謀にも、『失われた時を求めて』を最終巻だけ読んでいる

しかし、その一方で、私はエッセイというジャンルを念頭におきながら、文章を書いている。私の書く文章は、自分にとってはすでにエッセイであり、また他人からもエッセイと呼ばれるような文章でありたい。

作品とエッセイはどのような関係にあるのか。それを考えるために、短い文章を書いてみることにした。このあと続くのは、そうしてできた小品。


職場からの帰り、クルマを運転しながら考えた。エッセイを作品にする、あるいは作品としてエッセイを書くということは矛盾していないだろうか。まとまりをつければ硬直する。思うがままに書けば締りがなくなる。話したことを文字にしただけでは文章とはいえない。作品を書くのは、難しい。

作品とは何か。作品とは、宇宙。構造、伽藍、建築、何とでも言える。それらが含意するところは、全体が細部の集合からできていること、細部の一つ一つに意味があり、それらの位置付けに関連があること。作品は一つの完成された存在であり、外部から入り込む余地のないもの。

エッセイは、そうした作品に不可欠な性質を拒絶し、むしろ挑戦するものではないか。エッセイは、体系、理論、物語を拒む。場当たりな思考を好む。場違いな表現を選ぶ。意表をつく連想で遊ぶ。こうしたエッセイの特質は、エッセイが作品になることを禁じているようにもみえる。

しかし優れた作品には、エッセイ的な要素があるようにもみえる。古典、名作、傑作、名前は何でも多くの人びとが高く評価する作品は、底浅い体系、硬直した理論、見え透いた物語を拒む。ありきたりな思考や常套句を嫌う。手垢のついた連想を避ける。優れた作品はみな、終わりのない物語、未完成の建築、開かれた構造、などと言われる。

ところで、優れた作品は優れたスタイルによって生み出される。作品とスタイルの関係は、クルマと轍のような関係。

以前から考えていること。スタイルとは、クルマのようなもの。スタイルは、垂直には趣味と批評からなる。水平には技術と感性を両輪とする。趣味とは嗜好性であり、志向性である。誰でも、知らないものについて書くことはできない。見聞きしたもの、好きでも嫌いでも心に残ったものしか、作品にこめることはできない。それらを好きなまま、嫌いなまま書いても作品にはならない。好き嫌いを客観的に見る必要がある。批評とは、趣味を反省すること。

また、技術だけでも、感性だけでも作品は書けない。どちらが重要というのではない。両輪が同じ大きさでなければ、クルマはまっすぐ走れない。技術と感性の均衡が大事。

車体と車輪だけでは前に進まない。エンジンが必要になる。このエンジンは、自己肯定と自己否定を両極とするモーター。両極を激しく往復することで、勇気という推進力を生み出す。燃料は、もちろん優れた作品やスタイル。過去の人々と今の人々。肯定と否定のあいだの振幅が大きければ大きいほど、馬力は大きくなり、両極を振幅する周波数が高まるほど、回転数は大きくなる。そうなれば、精密で堅牢な構造が必要になる。この点もエンジンと同じ。

エッセイに戻る。エッセイは体系、理論、物語を拒む。にもかかわらず、作品としてエッセイを書くということは、拒みながらも、全体の構造、配置について無意識ではいられない。作品という建築物は、外の寒さがしのげるだけの密閉度がいるけれども、なかにいる人が息苦しくなってもいけない。

エッセイを作品として書くのは、後ずさりしながら、前に進むようなものではないだろうか。何が書かれるか、自分でもわからない。けれども書いたものは、見える。見えるものを置き換えたり、書き換えたりしていると、作品に近づいていく。後ずさりしていると、それが見えてくる。もともとエッセイの題材は、過去をふりかえるものが少なくない。私の文章は、とりわけそう。その点でも、後ずさりというたとえがあう。

作品を書く難儀について考えていたら、カウンタック・リバースという言葉を思い出した。カウンタック・リバースとは、イタリア製スポーツカーを後ろ向きで車庫入れする特殊な技。以前、自動車雑誌で読んだことがある。

このスーパーカーは前に進めば、公称最高時速三百キロメートルを誇る。ところが、一メートル七センチの車高で、後方視野はほとんどない。斜めになった側窓は半分しか開かず、おまけにエンジン・フードが張り出しているから、首を出せたとしてもほとんど何も見えない。

狭い車庫に入れなければいけない所有者は、上方に開くガル・ウィングを跳ね上げ、身を乗り出して逆走する。二メーターを越す車幅で、一速でもアクセルを踏み込めば百キロは軽く出る。暴走しないように、慎重にペダルを踏みながら、半身で後方を確認し、片手でステアリング・ホイールを支えるのだという。

感性と技術の均衡を図り、趣味の水準を批評の水準に高める。そして自己肯定と自己否定を激しく往復しながら、暴走しないようにゆっくりゆっくり後ろ向きに進む。スーパーカーを前向きのまま車庫で見せたい、偏執的なクルマ好き。作品を書く気持ちはそれに近いかもしれない。

ところで、カウンタックという車名は、実は誤読と聞いたことがある。この車名は、有数カロッツェリアの一つ、ベルトーネに当時属していたマルチェロ・ガンディーニが一九七一年にジュネーブ・ショーで発表した試作車に由来する。

「驚愕」を表すイタリアの一方言、クーンタッチが原語らしい。試作車のデザインは、文字通り観衆を驚愕させた。ところが、この車を日本ではじめて紹介するときに、読み方がわからない誰かが呼んだカウンタックという当てずっぽうが、のちのち正規輸入代理店まで使用する名前になってしまった、という。

もともとの名前とは読み方も違い、意図も忘れられている。しかも、私が運転しているのは、高価なスーパーカーとは大違い。だいたい私は、カウンタックには一度も乗ったことがない。みんな聞いた話。こんなところも、エッセイという作品にかける、私のひねくれた意気込みに似つかわしい感じがする。

ほかにもある。カウンタックは、扱いにくいクルマとしてもよく知られている。エンジン系が弱く、よほど機嫌がよくなければ性能は十分に引き出せないと聞いたことがある。手入れしても、公称値の最高速はまず出せないらしい。それからフェルッチオ・ランボルギーニは、エンツォ・フェラーリを超えるクルマを作ろうとして、巨人フェラリーを飛び出し、農耕器具からはじめた一匹狼。

狼といえば、池沢さとし『サーキットの狼』で、リア・ウィングもつけずに、緑色のLP四〇〇で流石島レースに出場したのは、横浜育ちのハマの黒豹……。

こんな調子なら、いくらでも書けそうな気がする。とはいえ、これ以上たとえ話を続けても作品からは遠ざかるばかりだろう。作品とは、わかりやすいたとえ話ではない。作品とは小宇宙、内的連関、自足した表現の集合体。つまり、何かの代替ではないし、何かを写し取ったものでもない。だからやはり、言葉の銀河であって、言葉のマーブルではない。


ここからあとがき。以前市立体育館の児童室で、子どもが滑り台をおりる姿を見ながら思いついたことを「エッセイについて」という文章にした。いま書いた文章は、同じ体育館で行われた冬休みの行事「サンタさんと親子運動会」の間、ずっと書いていた。もちろん心のなかでのこと。

事件が会議室で起きるものでないように、思想は書斎で生まれるものではない。事件の手がかりは現場に残されているように、思想の手がかりも現場に残されている。私にとっての現場は、いまは子どもとの暮らし。

だからといって、私の思想が子育てに関することとは限らない。思想はそんな短絡的なものではないはず。実際、これまで思想は、さまざまな場所で生まれているけれども、生まれた場所と直接関わりがあるものばかりではない。それどころか、これまで思想を生み出した人たちも、現場にいながら見えない携帯電話で遠い会議室と激論を戦わせていたのではないか。

刑務所、大学、企業、教室、収容所、図書館、プール、亡命先の外国、家庭、グランド、宮廷、山、海、そして極点。そこがその人にとって現場であるならば、そこから思想が生まれる。しかし、その場にとどまるだけの考えならば、それは思想とは呼べない。

思想とは人間全体である、という言葉には二重の意味がある。その個人全体であり、なおかつ人類全体でもある。作品は小宇宙である、ということは、部分であり、また全体でもあるということ。これ以上比喩を重ねるのはやめる。最後の段落へ戻る。


碧岡烏兎