烏兎の箱庭――烏兎の庭 第二部 日誌
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2005年6月


6/4/2005/SAT

人生手帖、山口瞳、河出書房新社、2004

言葉の思想 国家と民族のことば(1975)、田中克彦、斎藤美奈子解説、岩波現代文庫、2003

田村隆一エッセンス、青木健編、河出書房新社、1999

深い河(ディープ・リバー)(1993)、遠藤周作、講談社、1996

今年二度目のシンガポール出張。今回は、予算と時間の都合で、いつもは乗らない航空会社。機内番組は映画、音楽あわせて300種類。

迷ったあげくに選んだのはふだんから聴いている音楽や既に知っている音楽。Billy Joel, “Greatest Hits volume Ⅲ”夏川りみ『てぃだ』Norah Jones,“Feels Like home”とDiana Krall, “A Girl in the Other Room”、それから前回の出張の際、機内で見た映画“Ray”のサウンドトラック

ぱらぱらと眺めた雑誌は、いつもの週刊アスキー、アートディレクターを特集したPen、本を特集しているGQ Japan、388Km/hで走るスェーデン製のスポーツカー、CCRの記事がある機内誌。

この週末は読み終えているウルトラマンの生みの親、金城哲夫の伝記の感想を書くつもりだったのに、進まなかった。書けないということも重要なこと。なぜ書けないのかを考えると、書いておかなければならないことが少しずつわかってくることがある。

思えば「庭」そのものが、そういう過程を通じて育ってきた。

山口瞳を読みなおして書評「江分利満氏の優雅な生活」を剪定。江分利満氏に登場してもらったカッコ内の一文を(ざけんなヨ)からもう少し具体的な表現にかえる。

70年代以前の雰囲気を醸し出すために文末につけた片仮名のヨはそのまま

表紙写真を第一部第二部とも今週撮影した写真にいれかえた。第二部表紙に新しくエピグラフを追加。


さくいん:ビリー・ジョエル夏川りみノラ・ジョーンズ


6/10/2005/FRI

ジョルジュ・ラ・トゥール展、国立西洋美術館

クールベ展 故郷オルナンのクールベ、三鷹市民ギャラリー

「ラ・トゥール展」のあと、常設展でルオーの道化師を見た。そのとき読んだばかりの遠藤周作のエッセイ「ルオーの中のイエス」(『遠藤周作文学全集13』、新潮社、2000)のことを思い出していた。

でも、何とかしてそのことには触れずに書きたいと思った。あれこれと悩んでいるうち、むかし読んだ詩を一つ思い出した。

関連のある書評「深い河」に蛇足を追加。

今日は松山からふだんは乗らない飛行機で帰ってきた。機内雑誌でよく売れている人のコラムをよせばいいのについ目を通した。名前はもう書かない。腹立ちまぎれに、毒づくような文を残しておきたくなった。

あわせて文章を書きはじめた頃に書いた雑評「クールベ展」(村内美術館)を剪定。「庭」に頻出するモチーフ、名前を用いて最後に追記。


6/15/2005/WED

書評「深い河」に蛇足の蛇足を追加

書評「深い河」に蛇足の蛇足を追加。

最後の一文はいつかどこかで書いておこうと思っていたこと。ウィニキウスはシェンキェビチ『クオ・ヴァディス』の主人公。

書いておきたいことがようやく書けた気もするし、あとで消したくなるような気もする。

引用した遠藤周作の「あるエッセイ」は「神と神々と」(『遠藤周作文学全集 12』)。正確な文章は次のとおり。

   僕はただ、この手紙で、「神の世界」への旅には、「神々の世界」に誘惑させられ苦しまされる事なしには行けないことを書きつけたかったのでした。モーリヤックは『小説論』の中の一節で「東洋人には神はない。何故なら彼等は自我を主張しないから」という様なことを書いていましたが、それは例え独断的な意見であっても、本当に僕たちは、自分が営む秩序ではないあの神の秩序に入るために……神々の美をあの死の享しい眼差しを、死を通して生を甦らす眼を……僕たちの裡にあるあのなつかしい血を喪うような悲しさを覚えます。

6/17/2005/FRI

ウルトラマン白書 第4版、宇宙船編集部、朝日ソノラマ、1985

ウルトラマン・クロニクル(ウルトラマン生誕30周年記念)、高貴準三、イオン、竹書房、1997

空想特撮美術体系 大ウルトラマン図鑑、西村祐次(企画・構成)、ヤマダ・マサミ(企画・構成・執筆)、ホビージャパン、1996

ウルトラマン昇天 M78星雲は沖縄の彼方、山田輝子、朝日新聞、1992

金城哲夫 ウルトラマン島唄、上原正三、筑摩書房、1999

DVD ウルトラセブン(1966) vol.12、パナソニックデジタルコンテンツ、1999

書評と映像評、二つの文章を植栽した。

『ウルトラセブン』のDVDは、最終話「史上最大の侵略」を含む。

2002年から2004年まで書いた『庭』の第一部ではウルトラマンについて二度言及している。そのうちの一度は、セブンの最終話について書いている。今回の書評とあわせて、人名索引に金城哲夫をつくった

ウルトラマンについては出版された本よりも、ネット上のほうが情報も豊富で有益。サブカルチャーには、反権力を志向する一面と版権元という権力に対して弱い一面がある。版権元に配慮したり、場合によって検閲までされた本の情報は批判性に欠ける。版権を無視したネット上の批評の方が、ときに著作権ギリギリではあるとしても、より自由活発であることは間違いない。

以下、今回参考にしたサイトを掲げておく。

金城哲夫が「沖縄人らしい沖縄人」と評した森口豁さんは、いまも「沖縄通信」を発信している。以前は高校時代に金城哲夫とつくった沖縄研究誌も読むことができたけれども、いまは公開されていない。

大野隆之さんは文学研究の傍ら金城哲夫を学問的に研究している。「金城哲夫論序説―「ウルトラマン」はいかに読まれてきたか」(『沖縄国際大学 日本語日本文学研究』8-1)は、伝記二作を含め、これまで金城哲夫やウルトラマンに触れた文章を資料批判しながら概観する。

大野さんは、金城哲夫=沖縄という一元的な図式ではなく、両義性や多様性を彼のなかに見る。この見方に共感しながら書評を書いた。

金城だけではない。人は誰でも多様な存在。その多様な自分をどう受け入れるかが問題。私にとっては、文章を書くことが、自分の多様性を受け入れる練習になっている。

作品の批評では、大野さんがリンクしているシリカゲルさんの「Ultra Mystery Tour」

「セブン」は宇宙人セブンが地球人ダンになる過程、という解釈に、最終話の見方を教えられた。

書評にあわせて「ウルトラマンレオ」からリンクしている「第一部」の映画評「太陽を盗んだ男」にある「ウルトラマン」を「ウルトラマンレオ」に変更。

再放送を見ていた私にとって、ウルトラマンは70年代のものだけれど、もとは60年代のもの。本文に書いたとおり、70年代のウルトラマンは、原型からかなり変容している。

例えば、「A」は、どの紹介でも「米第七艦隊なみの戦闘能力」と書かれる。米軍の最新兵器が子どもの遊びに入り込んでいた冷戦時代を映していると言えるとしても、金城哲夫なら、そのような設定をしただろうかと考えてしまう。


さくいん:金城哲夫60年代70年代


6/24/2005/FRI

事項索引に「酒」を追加

事項索引のなかにを追加。思い出せるかぎり、記入しておいた。読み返しながら、これから少しずつ追記する。

酒は好き。酒についてもよく書いている。銘柄は書かない。遠まわしではあるけれど、酒を好きな人にはわかるような書き方はしている。宣伝の片棒をかつぐつもりはないけれどどうしてもある銘柄であることを書いておきたいと思うと、結局、そういうもったいぶった書き方になってしまうのも、やむをえない。

ほかの項目は漢字二文字で統一されている。「酒類」でははあまりに無粋なので、漢和辞典で調べて、とりあえずアルコールそのものを表わす酒精とした。

読んだばかりの田村隆一の詩から「酒神」という言葉を引きたくもあるけど、迷った末にやめた。私にとって酒は、山口瞳にとってそうだったように、よくも悪くも、神であるより友のような存在だから。

むかし、ラジオのCMソングでよく聴いた。

初めての街で
いつもの酒

これで一人ぼっちじゃない
西田佐知子「初めての街で」(永六輔作詞、中村八大作曲、1975)

子どもの頃、学校を休んだ日に聴いたAMラジオ。会社員になってから仕事へ行くクルマで聴いたラジオ。いまでも会社を休んだ日に寝床で聴くラジオ。20年近く続いているCMソングは「上を向いて歩こう」と同じコンビの作品だった。ただ、「上を向いてあるこう」では「ひとりぼっち」ではなく「ひとりぽっち」だったと思う。


さくいん:山口瞳永六輔


6/25/2005/SAT

日本の庭・世界の庭、佐藤誠、農文協、2005

あまりよく書けた気がしない。たぶん過去の文章とのつながりを気にしすぎたせい。捨ててしまおうとも思ったけど、この本を楽しく読んだことは事実なので記録として残すことにした。

こういう失敗やムダと思うような文章が意外にもあとで何度も読み返す文章になったりする。

書けるときには、たくさん書くのもいい。ムダに動くのも悪いことばかりではない。

こういうことは、みうらじゅんに教わった


さくいん:みうらじゅん


6/26/2005/SUN

近代日本のカトリシズム 思想史的考察、半澤孝麿、みすず書房、1993

遠藤周作文学全集13 評論・エッセイⅡ、遠藤周作、新潮社、2000

小林秀雄全集 別巻Ⅰ、小林秀雄、新潮社、2002

行末処理などまだ未完成ではあるけれど、まず公開。ゆっくり剪定。

書評で主にとりあげた作品は、『遠藤周作文学全集』から「人間のなかのX」「意識の奥の部屋 追悼 小林秀雄」「小林秀雄氏の絶筆」。『小林秀雄全集』から「正宗白鳥の作について」。

書きながら考えていたのは、先週書評を書いたばかりの書評「ウルトラマン 島唄」(上原正三、筑摩書房、1999)のこと。上原は「人間のなかのX」を“ブラックホール”と呼んでいる。

ブラックホールは「心の闇」と言い換えることもできるだろう。それは犯罪者だけでなく誰もが持っているもの。SFシナリオ作家らしいともいえるし、上原の人間、なかでも伝記の対象である金城哲夫に対する思いがこめられているように感じる。

心の奥底にあるものを暗闇と思っているのは上原ばかりではない。もっと強い畏怖と愛情を込めて「わが母なる暗黒」と呼ぶ人もいる。この数年をふりかえってみると、私についても同じことがいえるかもしれない

あわせて、「ウルトラマンについてもう一度」の前に少し追記した。

どうしても書いておきたいことは、いつも、書き上げてから読み返したり、ほかの本を読んでからわかる。書くことに締め切りのある仕事をしていなくてよかったと思う。これは嫌味でも、僻みでもない。

   『島唄』は、不思議な場面で終わる。唐突にも感じられるけれど、上原が感じやすい性質であることは前のほうに書かれていて伏線になっている。この場面が事実だったかどうは問題ではない。おそらく上原は『島唄』を書き上げて、金城哲夫が目の前によみがえったように感じたに違いない。
  そう確信するのは、この一編の伝記を読み終えて、私の心に、会ったことはなくても、金城哲夫という一人の人間が映し出されたから。その姿は、『ウルトラセブン』のオープニングのように、色鮮やかな混沌のなかに影のように浮かび上がる。

先週末、金城哲夫が脚本を手がけたの別の作品、「ウルトラ警備隊 西へ」を借りるつもりが貸出中だったので『ウルトラマン』の最終回「さらば ウルトラマン」を借りてきて見た。

いろいろ書きたいことはあるけどやめておく。オープニングに浮かぶ「脚本 金城哲夫」を見るだけで、胸にこみあげてくるものを感じるようになったことは書いておく。


さくいん:金城哲夫上原正三


6/29/2005/WED

第二部の民藝のページを再表示

第二部の民藝のページが消えていたので再表示。

民藝とは、民衆的文藝のこと。私がふだん見ているほかの個人サイトのこと。民藝のページとは他の人が作っているサイトへのリンク・ページ。「リンク」とカタカナ表記したくないばかりに考案した。

第二部にも民藝のページが存在していたにもかかわらず表示されてなかった。表紙と第一部の民藝のページからたどれるようにした。あわせて最近よく訪れるサイトを追加した。



uto_midoriXyahoo.co.jp