5/8/2005/SUN
デモクラシー(思考のフロンティア)、千葉眞、岩波書店、2000
第9章 戦後日本の社会契約は破棄されたのか――政治思想史からの徹底平和主義、千葉眞、戦争批判の公共哲学――「反テロ」世界戦争における法と政治、小林正弥編、2003
政治における正義――ハンナ・アーレント、報復の正義から赦しの正義へ、共生と平和への道、(聖心女子大学キリスト教文化研究所創立五十周年記念論集)、聖心女子大学キリスト教文化研究所編、春秋社、2005
政治思想史研究者、千葉眞の最近の著作、論文の書評を植栽。
千葉の著作では、10年ほど前に『現代プロテスタンティズムの政治思想――R・ニーバーとJ・モルトマンの比較研究』(新教出版社、1988)を読んだ。ニーバーやモルトマンの名前はこの本に教えられた。
『祖国のために死ぬ自由』を読んで以来、日本国憲法についていま考えていることを書き残しておきたいと思っていたところ、いい本に出会えた。
書評「詩とことば」(荒川洋治、岩波書店、2004)を剪定。論旨も文章も変更してはいない。余韻の残りそうな段落を最後に送り、残りの順番を入れ替えた。
書評「つぶやき岩の秘密」(新田次郎、新潮社、1972)に、一文追加。
連休中、NHK少年ドラマシリーズ『未来からの挑戦』を見た。このDVDを見るのは二回目。感想を書くつもりだったけれど、まだ書けない。代わりに、すでに書いた別のドラマの感想文を少しなおした。
5/16/2005/MON
未来少年コナン 第26話 大団円
雑評「未来少年コナン 第26話 大団円」、「コナンの旅は『のこされ島』にはじまり」の先を追加。何かものたりない感じがしていたので、追記をしてひとまとまりにできたように思う。
ここに書いたことは先週、谷山浩子「ねこの森には帰れない」(『HIROKO TANIYAMA ’70s』、ポニーキャニオン、1999)を聴きながら、思いついた。
さくいん:谷山浩子
5/19/2005/THU
描かれた家族(FAMILIES THROUGH THE EYES OF ARTSITS, 1989)、Wendy and Jack Richardson、若桑みどり監修、森泉文美訳、小峰書店、2005
描かれた仕事(WORK THROUGH THE EYES OF ARTISTS, 1989)、Wendy and Jack Richardson、若桑みどり監修、福間加容訳、小峰書店、2005
描かれた戦い(CONFLICT THROUGH THE EYES OF ARTISTS, 1989)、Wendy and Jack Richardson、若桑みどり監修、福間加容訳、小峰書店、2005
先週借りてきた画集から、気に入った画家の名前を覚書として抜書きした。
書評「デモクラシー」(千葉眞、岩波書店、2000)を剪定。憲法の問題と安楽死や脳死の問題を比較した部分に以下を挿入。
人には命がある。命を失えば、人は死ぬ。その命とは何か、という点だけでも議論は尽きない。では国は、どんなときに国の名に値しなくなるのか。国がなくなったとしても、最後に残るものは何なのか。そういう問題よりも、健康でいる間に何を楽しみ、どんな仕事をしようか、そんな議論しかされていない。
尊厳死の安易な適用に抵抗する考えは、『現代思想 2004年11月号 特集 生存の争い 医療・科学・社会』(青土社)で、立岩真也が書いた文章を読んで知った。
5/21/2005/SAT
書評「1.5流が日本を救う」を剪定。収容所の被収容側の代表で、かつ仲間の監視役のカポーという名前を挿入。この言葉は何ヶ月も前に新聞か雑誌の記事で知った。出元は記録しそびれた。言葉まで忘れてしまう前に書評に埋め込んでおいた。
何かを表わす言葉がある、ということにはいい面とそうでない面がある。理解しがたく説明しがたい事態を一言で表わす言葉があれば、説明できると思うだけでも不思議と気持ちは落ち着く。その一方で、言葉があるということは、そういう事態、そういう概念の存在を認めるということでもある。
たとえば、PTSDという言葉のおかげで、そういう心理状態にある人には名づけられて安堵する一面もあるだろう。一方、大きな出来事があったのに、表面的には平静に生活している人は、何ごともなかったようにしている自分は冷酷非情ではないかと、まったく別の脅迫観念に苦しんでいることもあるのではないか。
そのほかの最近の剪定。
書評「日本評論選」では宮沢賢治の名前が行をまたいでいたので、一行に入るよう整理した。他はほとんど行末を揃えただけ。文節あるいは音節で行を区切る形式は、絵本ではごく当たり前。散文でも可能なことは、『台湾俳句歳時記』(黄霊芝、言叢社、2003)に教えられた。
『論理哲学論考』と『日本評論選』は、ちょうど同じときに読み終えたこともあり、私の中では対になっている。書評「論理哲学論考」の草稿には、宮沢賢治「農民芸術概論綱要」からの引用が残っている。『論考』の最後にある、「登りきってから捨てるはしご」に近い表現。
理解を了えばわれらは斯かる論をも棄つる
畢竟ここには宮沢賢治一九二六年のその考があるのみである。
書店でみると、宮沢賢治は、ほとんどありとあらゆるものと類比されている。ウィトゲンシュタインとの比較研究もすでにあるに違いない。
5/22/2005/SUN
土佐日記、紀貫之、鈴木知太郎校中、岩波文庫、1979
小泉義之『弔いの哲学』(河出書房新社、1997)は非常に感心しながら読んだものの、とりあげられていた「土佐日記」は難しそうに思えて、二の足を踏んでいた。
私の文章をきっかけに「土佐日記」を読んだ遠藤潤さんのブログに誘われて、読みはじめた。おそれずに読んでよかった。書評はまだ整理されていない部分もあるけれど、とりあえず植栽。
神道史を中心に宗教学を研究する遠藤さんの文章は、「岩波講座宗教3 宗教史の可能性」(編集委員:池上良正、小田淑子、島薗進、末木文美士、関一敏、鶴岡賀雄、岩波書店、2004) で読んだことがある。
こちらの文章も読んでいただいたうえに、新しい読書も教えてくれた。感謝。