烏兎の庭 第一部
表紙 > 目次 >  書評 > 文章
7.8.02

アメリカニズム―「普遍国家」のナショナリズム、古矢旬、東京大学出版会、2002

ラインホルド・ニーバーとアメリカ、鈴木有郷、新教出版社、1999


『アメリカニズム』は、聞きなれない術語と自由の女神をあしらった装丁が、書店で目にとまり気になっていた。アメリカ政治史というと斎藤眞の『アメリカ政治外交史』(東京大学出版会、1975)と『アメリカとは何か』(平凡社ライブラリー、1995)の二冊を何年か前に読んだことがある。偶然にも、古矢は斎藤の教え子であるらしい。

ニーバーは、著書の一つ、『アメリカ史のアイロニー』(大木英夫・深井智朗訳、聖学院大学出版会、2002)を立ち読みして興味を持った。近くの図書館にはなかったので、図書館にあった新しい研究書を借りてきた。時代背景やニーバーに対する批判も含め彼の思想史的な位置づけが書かれていたので、こちらを読んでよかった。

少し前に読んだ、マーサ・ヌスバウム『国を愛するということ』(辰巳伸知・能川元一訳、人文書院、2000)では、前書きや解説で、この本の内容はアメリカ合衆国という議論の舞台を抜きにしては深い理解はできない、と注意が促されていた。とりあえずの感想は書き残したけれども、もう一度、ちょうど手に取った合衆国の政治思想史研究書を読みながら、アメリカにおけるナショナリズムとコスモポリタニズムについて考えることにした。

古矢によれば、合衆国はつねに「世界のアメリカ化」と「アメリカの世界化」を同時に進めてきた、いや、進めざるをえなかった。別な言い方をすれば、合衆国は建国以来、普遍的な理念を追い求めると同時に、国民国家としての求心力を高めなければならないという矛盾をかかえていたと古矢はみる。


国民国家の理念という観点からすれば、このような逆説は合衆国に限ったことではない。国民国家が誕生したフランス革命でも、フランス共和国という限定された国家がつくられたときには、理念としては普遍的な価値が追求されたし、後進だった19世紀のドイツですら、「たんにドイツ的であることは、真にドイツ的であるとはいえない」という箴言にあらわされるように、多元性に高い価値が認められていた。この言葉は、何年もまえに読んだマイネッケ『世界市民主義と国民国家』(矢田俊隆訳、岩波書店、1968)で読んだ

その後ヨーロッパでは、空間的な制約から隣国との差別化、すなわち自国の中央集権化が優先された。合衆国の場合、国境を接する隣国はなく、むしろ拡大 していくフロンティアを開拓する移民、すなわち多元主義の種子を大量に受け入れた。その結果常に求心力と多元化の矛盾を抱えることになり、その抗争は今日でも続いている。

このような合衆国におけるアメリカニズムの矛盾と逆説をふまえて、ヌスバウムと論者による議論を読みかえすと、議論の背景や意図は日本社会とは著しく異なっていることがみえてくる。まず言えるのは、愛国者対世界市民という構図は、合衆国において建国以来の伝統的で建国理念に関わる重大な問題だということ。例えばある応答では、今さらヌスバウムに指摘されるまでもなく、合衆国自体が愛国心と普遍的な理念を両立させる壮大な実験だという発言が見られる。


次に指摘したい点は、古くから繰り返し議論されている問題なので、議論が単純な対立的な構図ではなく、重層的、多面的になっていること。巻頭の論文で、ヌスバウムは愛国心とコスモポリタニズムの関係を同心円状というモデルで説明している。これを受けて、多くの論者はヌスバウムの主張を、愛国心対世界市民精神という単純な対立の構図でとらえることをしていない。

どの論者もいずれの価値も認めながら、二つの精神を対立的でも、段階的でもなく、矛盾しない並列的な関係で説明しようと腐心しているようにみえる。つまり、この二概念の関係をどう構成するかという点に、各論者の考え方の特徴がよくあらわれているということでもある。

さらに付言したい点。世界市民とは、世界国家に住む住民、あるいは世界国家の建設を担う人間という意味ではなく、普遍的な意識をもった人間という意味であると、ヌスバウムは論者の批判に答えた「返答」でも繰り返している。

だからこそヌスバウムは、コスモポリタニズムを教育政策上の理念として強調している。ほとんどの論者はこの点も誤解せず受け止めている。言い換えれば、ヌスバウムが問いかけ、論者が議論しているのは、あくまでも合衆国国民にとっての世界市民精神。

合衆国を舞台にした愛国心と世界市民精神の関係性という問題意識といえば、ラインホルド・ニーバーが提唱した「アメリカ史のアイロニー」という概念が、もう一つの典型といえる。

神学者であり、また政治哲学者でもあったラインホルド・ニーバーは、「アメリカの外交政策のすべてを帝国主義として拒否するアメリカ批判も、アメリカを一方的に正義の味方と見るアメリカ礼賛も」受け入れなかった。そして普遍的な理念と求心的な理念との間に揺れる合衆国の矛盾をアイロニーという概念で把握し、矛盾を受け入れ、その矛盾に耐えることを合衆国政治思想の課題とした。


ニーバーとヌスバウムとでは、起点と矢印の方向が正反対になっている。ニーバーはアメリカを愛するがゆえにそこに普遍的な理念を求め、ヌスバウムは世界市民精神を重視するがために、合衆国政府に普遍的な教育政策を求める。二者のいずれも、またヌスバウム後の議論も、きわめて合衆国的な、アメリカニズムを体現した主張であり、議論であると言えるだろう。また忘れてはならないのは、議論が活発であることは、言うまでもなく、それが解決されない深刻な社会問題であるということ。

ふりかえり、日本国における愛国心の議論をふりかえるとまことに寒々しい。一方の極には普遍的な理念のない求心力だけを強調した愛国心、反対側の極には「この国に生まれてこなければよかった」というような後ろめたさをかかえた母国批判がある。

そしてそのあいだには、サッカーの国際試合で「君が代」を聞くと何となく涙がじわっと出てくるのを抑えきれなかった翌朝に、教員と校長が国旗や国家をめぐり、ほとんど血みどろの状態でもめている学校に、素知らぬ顔で通う無邪気な国民がいる。

君が代、日の丸など、教育現場での愛国心の強要がしばしば議論になる。ところがかまびすしいのは、愛国心は危険だという一方的な論法ばかり。「私なりに国を愛しているのだから学校で教えられる必要はない」「愛国心は家庭と地域で教えるものだから、時の政策で左右される学校では教えてくれるな」という批判が、右翼や保守と呼ばれる人々から聞こえてこないのが、不思議でならない。

国旗や国歌の強制に対抗する、いわゆる左翼の側でも、それを否定するばかりで、血に染まった日の丸を背負ってでもこの国に生きようという意志は感じられない

愛国心に裏打ちされた世界市民精神も、世界市民精神を支える愛国心も、この国では机上の議論でさえされていない。アイロニーとしての世界市民どころか、愛国心のアイロニーがここにある。



はじめてブルデューを知ったとき、その理論が何の役に立つのだろうかと疑問に思った。わかりきったことを言っているに過ぎないと思ったし、また現行制度を追認するだけとも思った。

今回ギュンター・グラスとの対談を読み、ブルデュー理論の企図がもう一歩踏み込んでわかった気がした。

彼の意図するところは、「血による峻別」「財産による峻別」に続いた「能力による峻別」(学歴といってもいいかもしれない)はいかにも誰にでも平等であるかのように装っているが、実は財産による峻別の化粧直しにすぎない。しかも脱落者に敗北の原因は能力が不足していたとあきらめさせ、また成功者に勝利は能力の差であると錯覚させることにより、より自発的に現行制度を補強させる結果をもたらす

この実態を暴露することにより、成功者の勝利を無にすること。それが、この理論のまず当面の目標といえる。


対談、その他の部分で気になったのは「知識人」という言葉。しきりに知識人の役割、責任という言い方がされている。知識人とはどんな人のことをいうのか。

知識人が知的エリートであるとするならば、現行制度下で知的エリートは文化資本の有無によって生み出される擬制的な身分なのだから、そこからはその体制を打破できる人間は生まれてこないことになってしまう。

少なくとも自分は知的エリートでもないし、知識人でもない。自分の経てきた教育環境は大衆文化にどっぷりつかっていたし、最終的に受けた教育もけっして高度なものではなかった。



uto_midoriXyahoo.co.jp