東洋文庫ミュージアム モリソン書庫

大学で政治思想史を専攻して、ジャン=ジャック・ルソーを題材にした卒業論文に「愛国者から世界市民へ」という題をつけた私にとって『愛国の構造』という書名は見逃すことができない。出版社の広告を見てすぐ読みたくなったものの、購入する余裕がなく図書館で予約をした。そうして上梓されてから半年を過ぎてようやく本書を手にした。

読みはじめて、すっかり忘れてしまった学術書の緻密な文体に苦労しながらも知的好奇心を激しく刺激された。丹念な論述と多彩な引用はとても有益で楽しい読書体験もしてくれた。

確かに一時期、こういう世界にいた。それなのに今は読みたい本一冊も買えないのはどういうことか。あまりいい方向ではないのでそれは考えずに読書を進めた。


著者は「愛国心」をめぐる状況が今、危機にあると強く感じている。自国第一主義、人権蹂躙、弱者排除、汚職と腐敗などなど、現代の政治は多くの問題を抱えている。その根幹に「愛国心」の問題がある。その問題意識が本書に一貫している。それでも著者は現政権を直接批判したり、時評のように政治状況をなぞるようなことはしない。あくまでも政治思想史という自分の専門分野に禁欲的に留まり、愚直なまでに学問的に思考を重ねる。

おそらく著者の問題意識は次の言葉に集約されているだろう。

自国に対するアイデンティティという問題はおおよそのところフランス革命以後に立ち現われたものであって、すぐれて近代的であり歴史的には偶然的なものにすぎない。しかし、にもかかわらず、それが自明視化されるということを現代パトリオティズム論の一つの歴史的特徴として指摘できるわけである。(第4章 愛国的である理由)

この数行を論証するために膨大な数の本を読み、論考を重ねる。学問とは本当に生易しいものではない。

著者の立場は「反・愛国心」ではない。その立場に身を置くと愛国心を自明視する人々と同じ土俵に立つことになってしまうから。客観的で学問的な立場を譲らない姿勢は真の標的ではない小者たちと身のない論争を避けるためでもある。


改憲を企む人たちは国民を国家(政権)に従う臣民にしようとしいている。それを自明のものとするために彼らは歴史を捏造し、無理矢理な論理を押し通す。

その真の標的と対峙する本書の戦略は間違っていない。本書によって「愛国心」の偶然性と虚構性は十分に明らかになっている。ただ、この戦略がどこまで有効なのか、という疑問を感じないではいられない。というのも、「愛国心」を自明なものとする勢力は歴史も論理も真面目に考えていない、早い話、どうでもいいと思っているから。だから彼らは平然と捏造と詭弁を繰り返す。

とはいえ、同じ土俵で戦うことでかえって足元をすくわれることが多かった政治の世界で、徹底的に学問的に攻める、という戦法は非常に有益。政治の現場で戦っている人々は本書を携えて「理論武装」することができるだろう。銃後が堅固であれば、前線はひるむことなく戦える。


おそらく、ここまで書いたことは本書が出版された際に多くの書評が論じたことだろう。ここから視点をかえて自分なりの感想を書いてみたい。

本書を読みながら驚いたことがある。それは阿部謹也『教養とは何か』で引用されていた同じ文章が本書で引用されていたこと。引用元はサン=ヴィクトールのフーゴー。

(前略)祖国が甘美であると思う人はいまだ繊弱な人にすぎない。けれども、すべての地が祖国であると思う人はすでに力強い人である。がしかし、全世界が流謫の地であると思う人は完全な人である。(終章 愛国の彼方へ)(引用は『教養とは何か』より)

興味深いことは、将棋面が構想する愛国心を越境し、解体を促す「宣教師」と阿部が定義する「教養」が交差しているところ。補助線を引けば「教養」は「リベラル・アーツ」と言い換えることも無理な変換ではないかもしれない。

「宣教師」という立ち位置は、著者も指摘するように「周縁にいる」というサイードの「知識人」の定義に重なる。さらに続ければ、彼が頻繁に引用するヴェイユの「(教会の)敷居の上に立つ」という言葉にもつながる。

「宣教師」という語感には、これらの関連する術語と比べて、境界を乗り越える、という動的なイメージが感じられる

硬直した現代の「愛国心」を乗り越えていく力は「教養」であり、それができる人は「知識人」。

私の読み方で本書の感想を一言で言えばそうなる。


ただ、「宣教師」という名称にすこし疑問が残る。「宣教師」は福音を「宣べ伝える」、言葉を換えれば「啓蒙」する人。それは、いわゆる「上から目線」の立場ではないか。乗り越え、壊して、立て直す、という立場を名乗るのであれば「修道士」の方が適切ではないか。

また、すこし意地悪な言い方をすれば、国家の聖性を融解させたいのであれば、宗教的な響きがしない名称を選んだほうがいいような気がする。

「宣教師」への違和感は本書のもう一つの結論と関連する。硬直した愛国心が自明化し、国民を臣民にする勢力が勢いを強めている大きな要因は「経済格差」とそこから派生する「教育格差」と著者は結論づけている。

この結論に異論はない。現代の社会問題は、いずれも突き詰めると「格差」に行き着く。それでは、愛国心を乗り越えていく立場は経済的に余裕があり、高度な教育を受けられる者だけが辿り着けるものなのだろうか。

もっとも、「宣教師」という立場を大学教員である著者が自分の志向する立場ととらえるならば合点がいく。そうであるなら、当然、次の疑問が湧く。人にものを教える立場にない私のような「平信徒」は「愛国心」とどう向き合えばいいのか。

著者は本書と同時に広く一般の読者を対象にした『日本国民のための愛国の教科書』を書いている。そちらの本には、私の疑問に対する回答が書かれているのかもしれない。

『日本国民のための愛国の教科書』も近いうちに読んでみたい。


今 、二つの戦略を考えている。一つは異文化と触れ合うこと。これも単に海外旅行ととらえるならば経済的な余裕がないとできないものではあるけれど、日本社会がどんどん多文化社会になっている現実を見ると異文化と触れ合うことは最早日常化しているとも言える。

大切なことはそれを楽しむということ。それがもう一つの戦略に関わる。

政治に対抗するためにあえて非政治的になること。たとえば、政権を嗤う、コケにする。政治とまったく違うことで勝手に盛り上がる。非政治的な表現を徹底することで政治に対し同じ土俵に立ってしまう「反」にならず、あえて「非」を突き詰めていくことで政治の世界を穿つことができないだろうか。

ヒントは、多和田葉子が「エクソフォニー」と呼ぶ暮らし方。

エグザイルでもなく、エクソダスでもない。「生き方」や「精神」という堅苦しいものでもない。それは多文化世界を楽しむ「日常の暮らし」。

学問としての政治思想史から遥かに遠ざかってしまった私はそういう境地を目指したい。

ここまで書き終えて読み返してみると、「第一部」へのリンクが多い。『庭』を始めた2002年頃から数年間はまだ社会科学的な思考をしていた最近書いているものは身辺雑記心の問題が多い。

難しい学術本を読み終えて、久しぶりに登山をしたような気分になった。本書は私の心の奥で眠っていた政治思想史への関心に火を灯してくれた。ありがたい。


付記。本書におけるルソーのとらえ方に対する私の考えは別の文章に書いた。