最後の手紙

烏兎の庭 - jardin dans le coeur

第五部

秋の公園 樹の影

10/10/2015/SAT

これまでのあらすじ


昨年末「自己都合(病気による)」という形で退職した19年間続けてきたサラリーマン生活は中断を余儀なくされた。一つの業界で18年間、5社で働いた。

その前も、新卒のサラリーマンを一年半、大学院へ行きながら自営業を3年半していたので、働いてきた年月は合計24年になる。厚生年金をもらうにはまだ一年足りない。

退職の具体的な話が出始めたのは、夏の終わり。「ちょっとミスが多くないか」という軽い叱責から「しっかり休んで、出直したらどうだろう」と言われるまで、主治医も驚くほどの急展開だった。もっとも、そこに至るまでには自分が気づいてなかっただけでいくつもの伏線があった

今後の生活と、やや大げさに言えば、これからの先の人生を考えるために、退職に至るまでの経緯をここで整理しておく。



1.

最終的に退職することになった原因のうち、一番大きかったのは社長との相性。確執というほど刺々しいものではまったくない。

米国では上場していても、日本支社は従業員は10人ほどの小所帯。社長といっても、遠い存在ではなく、直接の上司だった。新しい社長が着任したのは2013年6月2009年3月に入社して以来、3人目の上司だった。

2009年末から2010年の夏まで、支社長が不在だった間は、私が代行した。この時期にもストレスがかなり蓄積された。


思い出してみれば、面談を兼ねて初めて二人で夕食をしたとき、「ゴルフをしないか」「これからのキャリアをどうしたいか」と訊かれていた。そのとき、私は、日本支社で、一番社歴が長く、年齢も上だった。つまり、事実上私は社長直下のNo. 2であり、社長はそういう存在として私に期待をしていた。

新社長はこれまで仕えた人の誰よりも仕事好きでタフだった。大手企業の幹部に人脈もあり、ほとんど毎晩、顧客や業界内の知人と食事をしていた。週末も、土曜日には客と、日曜日は奥さんとゴルフをしている。スゴい人とは感心はしても、自分が真似できるとはとても思えなかった。

彼の質問の意図は、「オレのやり方に追て来るか、それとも、新しい仕事をよそに探すのか」という、初回にしてすでに最後通告だった。

私のいた業界では、4年間、勤めると転職する人が多い。とくに実績をあげた人ほど、報酬と役職を上げて転職する。小さな組織なので長くいたところで、昇格の機会は少ないから。日本支社長は、内部昇格より、都度、他社から引き抜いて来ることが多い。

あの時、社長がキャリアについて質問した意図をしっかり読み取るべきだった。実際、会社が成長していたおかげで、毎日、違うヘッドハンターから誘いのメールが来ていた。

とはいえ、よくよく思い出してみれば、このときはすでに、目の前の課題をこなすので精一杯で、転職活動をする暇も、心の余裕もなかった

『庭』の文章を読み返してみても、彼が着任する前、2013年1月の時点で、私の精神状態は、すでにかなりおかしくなっていた


人間として、またリーダーとしても、社長はとても魅力的な人だった。仕事のやり方にしても、部下への接し方にしても、見習いたいところがたくさんあった。問題は、期待に応えられない私の方にあった。少なくとも、当時はそう思い込んでいた。今はすこし違う感想を持っている。

彼には彼の、私には私の働き方があり、そこに違いがあるのは不思議ではない。それは優劣の問題ではなく、質の違い、スタイルの違い、と言ってもいい。

スタイルの相性が悪ければ、下にいる者はチャンスを求めて外へ出て行けばいい。



2.

2009年3月の入社から2013年6月に新しい社長が来るまでは、何とか仕事をこなせていた。ただ、数字の間違いが多く、上司からも本社からも、よく注意されていた。

一時期、社長職が空席になった8ヶ月の間、支社長を代行した。この時はかなり多忙で辛かった。自分の仕事をして、会社の事務を処理して、夜には増員するためにほぼ毎日、面接をしていた。それでも仕事が終わらずに、帰宅してから深夜まで眠れない日も少なくなかった。

ストレスが強く、重圧に耐えかねて、帰宅した途端にベッドに伏せて幼児のように泣きわめくこともあった。

このときも、自分の立ち位置を確認しなければならないときだった。新しい社長が外から来たということは、代行していた私は支社長の器ではないと本社から評価されたも同じだったから。

だから2010年8月の時点で中長期的なキャリア・プランを考えるべきだった。でも、それはできなかった。重圧から解放されると、今度は感傷的な抑うつ状態に陥った



3.

2009年3月、最後の会社に入る前、退職の遠因になり、そもそも、うつ病になるきっかけになった出来事。

2001年7月に米系ベンチャー企業の日本支社に転職した。日本支社の社員は5人。

私は、そのとき「成功」するつもりだった。成長する会社で、給料が上がり、もらった株で儲けることを夢見ていた。いや、愚かにも、きっとそうなると確信していた。

ところが、入社早々、業績悪化のために給料は1割減となり、やがてボーナスも出なくなった。2006年初めには新製品の開発も止まった。

ついには日本支社を統括する本社の営業担当副社長が、「倒産する可能性があるから、転職活動を始めろ」と指示する事態になった。


いい技術を持っていたので、最終的に2006年末に倒産するまで、売却の話もあった。会社ごと売られた場合、買収先の日本支社に移籍することもできるかもしれない。そんな噂がいくつか出ては、次々、消えていった。

会社はつぶれるのか、続くのか、それとも売られるのか。やきもきしながら転職活動を続けた。

人伝てに聞いた。本社の創業者兼社長は、売却交渉の最後に、0を一つ付け足したり、特別な役職を要求したりした。そういう噂が、たちまちシリコンバレーに広がり、相手にする会社もなくなったという。"He is too much greedy"と言った人がいた。欲深い、強欲、我執の塊。

このとき、私は社長の愚策にあきれるだけで、何の教訓も学ばなかった。その数年後、自分が "too much greedy" で自滅した。欲張ったがために、くわえていた骨を水面に落としたイソップ物語の犬になった。


「会社が倒産するかもしれないから、転職活動を始めろ」と指示されたのは、2006年5月。次の仕事が見つけるのに半年近くかかり、決まったのは12月。本社の倒産は時間の問題で、実際、終わったと聞かされたのは、クリスマスの朝だった。

何とか次の仕事は見つかってはいたものの、2007年1月は無職の状態で、国民年金を一ヶ月分、納めることになった。

秋の終わりに次の勤務先から内定をもらうまで、転職活動をしている間は将来に対する不安でいっぱいだった。給与カット、ボーナスなし、挙句の果てに倒産という経験が心に残した傷は浅くはなかった。



4.

2007年2月、一ヶ月の無職期間を経て、前職と同じ業界の会社で働きはじめた。同じ業界といっても、前職の会社は日米と台湾、韓国を合わせても、従業員は100人もいないベンチャー企業。日本支社は最後は3人だった。

新しく入社した会社は世界中に拠点をもつ大企業で、日本支社にも契約社員を含めると40人以上従業員がいた。

この会社にいたのは、2年と一ヶ月。2009年2月、前年に起きたリーマン・ショックの余波から会社は約10人、日本支社の4分の1相当の従業員を整理解雇した。いわゆるレイオフという奴。

対象者は、勤続年数と報酬に対して明らかに能力が不足している人と、社歴が浅くて、会社にとって「なくてはならない」存在になるほどまでにはまだ馴染んでいない人。私は後者の一人に組み込まれた。

最後の一ヶ月、2009年2月は有給休暇の消化だったので、実務期間はちょうど/わずか2年だった。


入社して2年足らずで整理解雇の対象になったことは、次を準備する時間が十分あった前職の倒産より落胆が大きかった。とくに家族は、大きくてちゃんとした企業に居場所を見つけられたことに安心していたので、私以上にショックを受けていた。

結果的には、解雇される方が、そのまま残るよりありがたかった。理由は、大きすぎる組織に馴染めずにいたこと、整理解雇の噂が出てから次の会社に接触をして、好感を得ていたこと、そして、加算退職金をもらえたこと

レイオフの対象人数が多かったので、会社側と団体交渉ができたのは幸いだった。こういう場合、一人だけでは、後の私がそうだったように、往々にして会社側に押し切られてしまう。

また、過去に解雇する側にいた古参の社員がいたので、こういう場合に会社がどの程度譲歩するのかもわかっていた。最後には、辞める人の分、仕事が増える残留者より、ギスギスした雰囲気から去っていく人のほうが晴れ晴れとした顔をしていた



5.

この会社では、レイオフ以外に後でうつ病の原因になったと思われる出来事があった。

入社して担当した顧客には、前の担当者が辞めてから半年近く、誰もサポートしていなかった。私は誰からも仕事を引き継ぐことなく「新しく担当になりました」と挨拶に出かけた。

顧客からすれば、出入業社に放置されていたのだから機嫌がいいわけがない。「今頃、来ても遅い。そちらとの取引はできるかぎり早く終わらせるから。もう来なくていい」と言われ、入社早々、門前払と出入禁止を食らうはめになった。

しかも、この会社は、これを社風と呼ぶのか、取引先はパートナーではなく、あくまで納入業社もしくは下請けとみなしていた。誰と話しても、こちらを見下している雰囲気を感じた。

打合せで罵声を浴びることもたびたび。この会社とは1998年ごろにも関わったことがあった。そのときも、接する人の態度は、一様に取引業者を見下していた。

この会社とは、昨年まで働いていた会社でも付き合ったけれど、最後まで、誰ともいい関係を作れなかった。私がその客先を苦手にしていることは、初めて同行したその日に、社長には見抜かれていた


それでも、何度も詣でて打合せを重ね、すこしずつ個人として信頼関係を築きはじめ、会社としても取引停止というがけっぷちからは立ち直った。その点は米国本社からも評価された。

ところが、この客先との取引で大きなトラブルを起こしてしまった。私一人のミスではなかったけれど、私が注意していれば防ぐことができたはずだし、客先からみれば、私が窓口であり、営業責任者だから、担当者は激怒した。

問題は日本支社だけでなく本社まで巻き込むほど大きくなった。驚いたのは、お詫びの訪問前の社内打合せでアジアの営業責任者が漏らした言葉。

今回のトラブルの原因が、我が社のシステムにあることはわかっている。しかし、それを言うと会社が信用を失うので、営業担当個人のミスにする。

解決の見通しがたったところで、私はこの客先の担当を外された。次の担当顧客はあてがわれなかった。当時すでにレイオフの噂があったので、もしレイオフが実施されれば、間違いなく私は対象になると確信した。

その頃、ちょうどこの業界で働きはじめた1996-99年にチームを組んでいた人が転職したと聞いた。その転職先が、2009年3月に入社した会社で、その会社を私は昨年末に辞めた


出入禁止のときに受けた拒絶、信頼を勝ち取るまでの緊張、トラブルが発生したときの罵声、そして、評価してくれていたはずの本社幹部の掌を返したような仕打ち。

そのいずれもが、苦しい気持ちにさせた。きっと「できる営業職」なら、こういう場面でこそ、笑顔や接待や、社内調整を上手にこなして難局を切り抜けるのだろう。

私は伸びきったゴムのようにモチベーションを失い、途方にくれた。あとはレイオフの通知を待つだけだった。

精神科に通院しはじめたのは、この年、2008年の夏だった



まとめ

細々と書いてきた「うつ病になったうえ、無職になった理由」のまとめ。

上の文章では、時系列が混乱しているので、内容を簡潔に箇条書きにする。

  1.  1. 2001年に転職した会社での給与カット。モチベーションを下げる無賞与・無昇級。
  2.  2. 2006年末の会社の倒産。半年以上の転職活動。
  3.  3. 2007年2月に入社した会社で緊張を強いられた出入禁止顧客への対応。
  4.  4. 予期せぬトラブル。本社の非協力的態度と担当外しという侮蔑的扱い。
  5.  5. 精神科への通院開始。
  6.  6. 入社後、わずか2年1ヶ月でのレイオフ
  7.  7. 2009年1月、大急ぎで決めた転職
  8.  8. 2010年、入社半年後から8ヶ月間、代行した日本支社長職での緊張と過労
  9.  9. 2013年に着任した社長の期待に応えられなかった業務能力の不足。
  10. 10. 2001年以降、繰り返す退職と転職に対応できなかったストレス耐性の低さ
  11. 11. 世俗的成功(役職と金)での敗北により崩壊し、無根拠であることを露呈した自尊心

2001年から今までの出来事を職業を軸にして書いた。出来るだけ客観的に、つまり、「何が、どうして、どうなったのか」(©宮川賢)自分を見るように心がけてみた。

書き終えてみても、「なんでこんなことになったのかな」という疑問は消えない。

この疑問から、さらに過去を遡って自分史をふりかえると、さらに暗い気持ちになる

なんであんなことになっちゃったのかな?

この言葉を少し説明する。

うつ病を発症した要因の一つに子どもの成長がある。小学六年生になれば自分が六年生だったときのこと中学生になれば中学時代のことを思い出し、悲しくなったり不快な気持ちになったりした。

特に息子の場合、種目こそ違っていても、私と同じように運動部に入ったため、試合を見るたびに憂鬱な気持ちになった

実際には、なる前から、ある年齢に近づくと、その年齢のときの自分や家庭を思い出すようになっていた。


後ろ向きのことばかり考えていて、「今後の生活と、これから先の人生」については、まったく考えることができていない。

許された休職は、あと8ヶ月。

こう書くと、まるでテレビ版『宇宙戦艦ヤマト』、毎回のエンディング。


さくいん:労働うつ病『宇宙戦艦ヤマト』