硝子の林檎の樹の下で 烏兎の庭 第四部
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2013年8月


8/17/2013/SAT

風立ちぬ、宮崎駿原作・脚本・監督、スタジオジブリ、2013

酷暑の夏休み。家族三世代で涼しく過ごそうと思い、映画館へ行くことにした。老若ともに楽しめる作品といえば、スタジオジブリ。話題になっている『風立ちぬ』を見ることにした。

後知恵ではなく、見る前から私はそれほど期待してはいなかった。数年前『崖の上のポニョ』を見たときに、宮崎駿の作品をもう見ることはないだろうとさえ思っていたから。

以下、断片的に書いたTweetをひとまとめにしておく。


『風立ちぬ』を見終えて思ったことは、以前、斎藤美奈子『趣味は読書。』(文庫版)について書いたことがそのままあてはまる。

   書店で、文庫化された『趣味は読書。』(2003、斎藤美奈子、ちくま文芸文庫、2007)を見つけた。単行本で読んでいるので、各章に加筆された部分と文庫へのあとがきだけを拾い読み。
   斎藤は、とくに男性の回想的な文章にみられる自責の念が自己陶酔にすりかわった文章を厳しく指弾する。つねに被害者は、多くの場合は女性で何の救済もなく放置され、男性作家は自己陶酔と作家としての成功をやすやすと手に入れる。

『風立ちぬ』は、これまで表面には描かれなかった宮崎駿の本質を思い切り晒した作品と言える。

ナルシストで柔らかな、あるいは無自覚なナショナリスト、戦記物好きで戦闘機も好き。そして、可愛い女の子が好き。そのうえ、その子は、うぶで不器用な主人公を清楚に自分から誘ってくれる。

偶然なのか、映画のなかの女性、菜穂子の位置づけは、村上春樹『ノルウェイの森』で主人公の「僕」が若いときに失くした恋人、直子と似ている。なぜか、音は同じで名前も似ている。


この作品での宮崎の暴走・迷走(私にはこの作品はそう映った)の責任は彼だけのものではない。協賛企業は作品ごとに増えている。今回は電通と博報堂が相乗りしている。船頭が多すぎるのではないか?

あるいは、船頭多くして迷走したのではなく、「宮崎駿」ブランドならどんなものでも売れるから、広告屋やメディアがたくさん便乗して、結果、作家に好き放題の仕事をさせた、ということかもしれない。


スタジオジブリは大きくなりすぎた。すでに書いたように協賛企業として電通と博報堂が呉越同舟してる。飛行機と空中戦の物語は、もともと『モデルグラフィックス』というプラモデルとフィギュアの趣味の雑誌に連載されていた宮崎の「妄想ノート」だった。そのモチーフはすでに『紅の豚』で劇場用作品にもなっている

なぜ、今更、同じモチーフを零戦と太平洋戦争に置き換えて作品化したのか。作品の映画化をすすめたのはジブリのプロデューサー、鈴木敏夫で、宮崎は乗り気でなかったと聞いた。結局、折れてしまったのは『ゲド戦記』でアニメ作品の経験もない息子に監督をやらせ、結果的に原作を踏みにじったときと同じ。

やるなら好きなようにやらせろ、という気持ちだったのかもしれない。一部の趣味に特化した雑誌の読者数とジブリ映画を欠かさずに見ている人数は桁外れに違うはず。ジブリの作品と思って見に行くと肩すかしや「よくわからなかった」という感想をもつことが多いかもしれない。


宮崎を戦争嫌いで兵器好きの矛盾の人、とこの作品の宣伝で、たびたび指摘されている。そんなことは「妄想ノート」を読んだことのある人には自明だった。「矛盾」は、目立たない場所で好きなように描いていた作品を「劇場版大作」に仕立て上げてしまったところにある。

太平洋戦争と零戦を題材にしながら、あれほどあっけらかんとした結末に着地したのはなぜだろう。この点も納得がいかない。

大戦中、飛行機のエンジン開発をしていたある技師は、自分の仕事について、映画の結末とは正反対に複雑な思いを述懐している

正直言って、五十年前を思い出すと、懐かしさよりもむしろ言いようのない戦慄を未だに覚える。果たしてあれはいったい何であったのだろうか。悪夢というには余りにも犠牲は大きかった。航空発動機造りに賭けた私の青春が無駄な日々であったとは決して思いたくない。
(『中島飛行機物語-ある航空技師の記録』、前田正男、光人社、1996)

漫画『風立ちぬ』は宮崎駿が自分のために楽しんでいた世界。自分とわずかな読者のための慰みものを表に引きずり出された巨匠には気の毒と言うほかない。金儲けのために零戦を安易に持ち上げ、巨匠の本性まで売り物にしたスポンサーとプロデューサーの罪は軽くない。


8/25/2013/SUN

中学生の息子の部活動の試合を見てきた。我が子の活躍を見るのは楽しいものの、行くたびに言いようのない不快感と嫌悪感が溢れてくる。

今日も、殴られる生徒こそ見なかったが、ふだんの生活ではまず聞くことのない罵声を聞かされた。

だいぶ慣れたと思っていたのに、ふと気づくと黙り込んでしまい、同行者を困惑させた。吹奏楽の発表会を聴くときには、こんな風にはならない。

2005年から何の進歩もない


8/27/2013/TUE

先週はシリコンバレーにある本社へ1年半ぶりに出張した


アメリカへ行くといつも思う英語を話すとき、私は性格が変わってしまう。PositiveでTalkativeになる。そうしなければ生き残ることはできない。15年間、アメリカ企業で働いて学んだ。

大勢の前で発表するときには、胸を張って自信満々に話し、気の利いた冗談を交えなければならない。もっと大変なのは、立食パーティー。こういう場面ではどんどんこちらからほかの人に話しかけていかなければならない。英語が苦手な人がぽつんと一人でいることがある。そんな人に話しかける人は滅多にない。

アメリカ人かどうか、アメリカで生まれたかどうか、そんなことは関係ない。ここで生き残るためには強く強く自分をアピールしなければならない。実際に、今の会社には英語圏外出身者がたくさん上層部にいる。彼らのたくましさ、したたかさ、そして自信に満ちた言動のなかにいると勢いに負けそうになる。

本社への出張が年に一回程度でよかった。「自信満々」を演じていると一週間でもすっかり消耗してしまう。

もちろん、アメリカにも寡黙な人はいるし口下手な人もいないわけではない。そういう人たちは、言葉以外で周囲に一目置かれるような特技がなければ、企業社会ではかなり苦労するだろう。


余談。アメリカの学生はよく質問し、日本の学生は黙っている、といったことをよく聞く。そんなことはない。上に書いたこととは一見、矛盾するが、各部門の責任者が発表を終えて発する“Any Question?”という言葉に挙手をする人はアメリカ企業でもそう多くはない。質問する人はいつも同じ。それも本社から離れた海外支社の人が多い。

ここには一つからくりがある。本社にいる人はふだんから部門長の話も聞いているからあえてその場で質問する必要はない。また、本社外の人にはわからない微妙な人間関係や力関係に本社内の人たちは敏感でその緊張には触れないように気をつけている。

対して海外支社の人は本社の責任者から直接に事業計画を聞く機会はほとんどないから、訊くなら今しかない。それにその部門長が本社のなかでどう見られているかという機微まではわからない。私の会社のように若い会社では、そもそも社歴の長い人が少ないから人間関係は恐ろしいほどダイナミックに変動する。


いまの会社に入って4年半近く。全体を見ても実は社歴は長い方になる。私が知らない人は多いが、私を知らない人はほとんどいない。

アメリカ企業で働きはじめた頃には、大事な会議に呼ばれなかったり、露骨に無視されたこともある。だからこそ、積極的に目立って自分を覚えてもらう必要がある。

今の会社では社歴の長さのおかげもあり、また日本に重要な顧客がいたこともあり、また、社内に亡命した人から移民、その二世代目が多いこともあり非アメリカ人に対する蔑視もない。そういう点で、これまで働いたアメリカ企業5社のなかでは居心地は一番いい。

それでも、一週間本社にいると疲れる。それは、どこの企業だからというわけではなく、本社という場所がそもそも気疲れする場所だからだろう。人が多いとそれだけで会議は多く、皆で守るルールも必要になり、人間関係も複雑になる。少人数の営業所のほうがずっと気楽。


8/28/2013/WED

昨夜は予定していた接待が中止になり、そのまま新しい上司と食事、今日から京都に2泊。夏になってから、忙しい日が続いている。

夕べは、新しい上司とはじめて二人きりで食事をしながら話をした

6月に入社した上司は、しばらく私の仕事ぶりを見て、頃合いを見て誘ったとみえる。

すべて見抜かれていた………逆境に弱いこと、職業上必要な野心がないこと、いまの職務に必要な能力も、その不足を補う気力も向上心もないことも。

彼は、これまで会ったことのないタイプ。営業職が好きで、ほとんど毎晩仕事がらみの夕食をして、週末にはゴルフを欠かさない。もちろん仕事もデキるし、早い。私から見るとスーパーマンのような人。

会社を伸ばす人が来てくれた、という嬉しさの反面、そんな優秀な人に自分はどう評価されるだろうという不安がわだかまっていた。

ゴルフ始めたら?
あのお客さん、苦手でしょう? 打合せするとき、顔がこわばってるよ。
そろそろ“今後のキャリア”を真剣に考える時期ではないかな?

やんわりとした問いかけは、「今のままではこの業界で営業職を続けることは難しいぞ」という宣告であることはよくわかった

経験豊富な人に嘘をついても仕方がないので正直に答えた。さすがに精神科に通院していることは告白しなかったものの、「今の仕事で精一杯なので、週末はほとんど寝ています」とは伝えた。

呆れられたに違いない。


上司と呑んで弱音を吐くなど、賃金労働者としてこれほど愚かなこともない。とくに今のような小さな組織では。「使えないヤツ」と思われたら、事業縮小に直面したとき、まっさきに解雇の標的になってしまう

新しい上司には、「ナイーブで、しかもネガティブ思考が強い」ということも見透かされていた。寿命が2年ほど縮まった気がした。つまり、あと3年くらいということ。

前にも書いた。死にたいと思うわけではないが、死んでしまう、あるいは気が狂い自分が自分ではなくなってしまう不安はいつもある。一人でいるときはほんとんどいつも、いつ死ぬか、どんな風に死ぬか、そのことばかり考える。

この先どうなるのか。心配しても仕方がない。心配する必要もない。続くときは続き、終わるときは終わるのだから


8/29/2013/THU

夕べから京都に来ている。今日は予定していた仕事がキャンセルになったので、駅前にあるホテルの部屋で仕事をした。合間に東寺か東福寺へ行ってみようかとも思ったものの、不測の事態が発生して午後は電話とパソコンに張り付いていた。

営業職をしていても、モノを売っている実感もないし、ましてやプロジェクトを進めているという気概もない。いつもいつも不測の事態の収拾に追われている気がする。目先の問題を解決しただけで仕事をした気になるなと言われたことがある。問題が起きないような仕組みを作れ、とも言われた。

給料とは、業務や、まして成功に対する報酬ではなく、苦痛への代償と思っている。変えようとしても、この考え方はなかなか変えられない。

正論とは思う。自分ではまったくできていない。今日の問題も、少し工夫しておけば未然に防ぐことができていた。今日もまた「だめだなぁ」とため息をついて一日を終える。


8/30/2013/FRI

今日は帰り道、ずっとチューリップを聴いていた。しばらく前にテレビで財津和夫が、オフコースの「言葉にできない」を衝撃を受けた楽曲と回想していた。財津和夫は小田和正に対して強いコンプレックスをもっているのではないか、という私の勘ぐりを裏付ける証言だった。

チューリップはビートルズを原点にしている。財津和夫もそう言っているし、デビューアルバムのジャケットは、“Magical Mystery Tour”を思い出させる。フォークを出発点にライブでは「竹田の子守唄」なども歌っていたオフコースのほうが流行からは遅れていた。

ところが、1979年頃、オフコースは一足早くAOR的なサウンドを取り入れ、「愛を止めないで」で一気にチューリップを抜き去った。一方、チューリップはサウンド面でビートルズ的な世界に留まり、さらには「サボテンの花」のようにフォークに戻るような軌跡をたどっていた。

だから、財津和夫は小田和正に対して敗北感を感じていたのではないか? そう思っていた。財津和夫の楽曲に魅力がなかったわけではない。「サボテンの花」のほかにも、この頃、財津は「切手のないおくりもの」のようにフォークソング寄りの佳曲を書いている。

チューリップの魅力と時代の雰囲気がちょうど重なった時に生まれた作品が、シングル「虹とスニーカーの頃」(1979)とアルバム『Love Map Shop』(1981)、思っている。


チューリップとオフコース、どちらが好きか、簡単に答えることはできない。それぞれに魅力がある。ただ、歌詞の世界では私は財津和夫を好む。財津和夫にあって小田和正にないもの、それは強い喪失感。アルバム『Love Map Shop』には、とくに「悲しみ」を込めた曲が多い。

もう一つ、財津和夫にあって小田和正にないものは、「愚直さ」。ありったけの情念を叩きつけたような言葉で歌う「もう笑わなくちゃ」や、同じ旋律が繰り返される「夕陽を追いかけて」を聴いているとそう思う。

小田和正は、年末恒例のテレビ特番『クリスマスの約束』に毎年、財津和夫を招待しているが財津は辞退している。2012年には、小田が財津の作品「夕陽を追いかけて」を歌った。小田自身が財津和夫の歌の世界にあって自分の歌世界にないものは「故郷」と「家族」と考えたのかもしれない。

もっとも、小田和正もソロになってから「MY HOMETOWN」「たしかなこと」のように故郷や家族をモチーフにした作品も歌っている。オフコース時代には考えられないことだった。そこに財津和夫の影響があったのかどうかはわからない。

来てもらうことができなかった財津和夫の「夕陽を追いかけて」を小田和正が歌った。財津への尊敬の念が込められた演奏だった。


余談

小田和正は「MY HOMETOWN』で故郷を横浜として歌っている。

横浜という場所は東京に対して微妙な位置にある。東京まで新幹線や飛行機に乗るほど遠いわけではない。かといって住んでいる人、とくに思春期の若者からみると、電車でわずか小一時間の場所なのに、まったく違う世界にみえる。

「MY HOMETOWN」は、小田が高校への通学に使っていた根岸線を舞台にしている。実は彼の地元はずっと南で、「秋の気配」の舞台になっている横浜の観光地からはさらに南の、むしろ横須賀や逗子、鎌倉に近い。

横浜育ちの阿木耀子が横須賀育ちの山口百恵のために詩を書いた「I CAME FROM 横須賀」(1977)に駅名が歌われている。

「上京」というほどに意気込みのいる距離ではないにしても、横浜は首都圏の一部であっても、中心ではない。

横浜南部からみると、渋谷と銀座はまだしも、下北沢や新宿は遠い。吉祥寺や池袋はなお遠い。

厚木出身のいきものがかりに、駅のホームで東京に向かう恋人に別れを告げる「KIRA☆KIRA☆TRAIN」という歌がある。厚木ならば、新宿まで小田急線一本なのに、「なごり雪」のように「今生の別れ」のように歌っている。厚木の人にとっても「東京」は遠い場所らしい


電車に乗れば小一時間で着くとしても、そこは東京ではない。あえて言えば、ベッドタウンであり、「郊外」と呼ばれる場所。

両親の住む家、すわなち自分が十代を過ごした家に帰るたび、「こんな田舎で育ったのか」と奇妙な感覚を覚える。首都圏外で十代を過ごしてから上京した人にしてみれば滑稽に見えるかもしれない。でも、郊外で育ち、今は東京に住んでいる自分は、そんな奇妙な距離感を感じないではいられない。


2015年7月20日追記

いきものがかりの水野良樹が、上に書いたことに呼応するようなことを書いている記事をみつけた。大元は松本隆との対談。『BRUTAS、2015年8月1日号、特集:松本隆』

僕らの地元である神奈川の海老名、厚木というところは、田舎でも都会でもない、なんとも中途半端な街だ。新宿や渋谷には小一時間で行けるし、横浜にだって30分もあれば行ける。「母さん、俺、東京に出るよ。と泣く泣く家を出ても、1時間ですんなり帰ってこられるのであまりドラマにならない。かと言って都会のようにビルが立ち並んだ洗練された街かというと、そうでもない。駅前だけは豪華すぎるほど開発されているが、ちょっと駅から離れたら一面田んぼ、畑、たまに牛舎。実に中途半端。でも、誤解しないでほしい。住んでみればわかる。その“中途半端”こそがたまらない魅力なのだ(再録・風街茶房)


8/31/2013/SAT

ジェラシーが支配する国――日本型バッシングの研究、小谷敏、高文研、2013

モラトリアム・若者・社会――エリクソンと青年論・若者論、小谷敏、若者とアイデンティティ、浅野智彦編著、日本図書センター、2009

子どもたちは変わったか、小谷敏、世界思想社、2003

久しぶりにすこし長く、まとまった感想文を書いた。Twitterに慣れてくると、思考が断片的になる。一つの概念について深く考えることもなかなかできない。そうでなくもて、近頃は常に焦燥感に追われている。時間をかけて読み、考え、書く時間をもちたい。


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