政治史でない、一般市民の戦中記には興味深い逸話が少なくない。民衆の置かれた複雑な状況が善悪、賢愚といった単純に割り切れないものであることを教えてくれる。個人の回想は、懐かしい人々を語りながら、過酷な状況に置かれながら、それでもまじめに生きる人々の姿を映し出す。読者は、回想している作者を含めて、一つの時代を、解釈としてではなく、経験として読みとっていく。
大正初期に生まれた著者の青年時代をたどると自由な雰囲気の時代が徐々に変化していくさまがわかる。横浜高等工業学校校長、鈴木達治(煙州)の「三無主義(無試験、無採点、無償罰)」には自由闊達な大正時代の雰囲気がよく現れている。彼の引退とともに一つの時代の幕が下ろされたように感じる。
印象に残る逸話は他にもある。飛行実験のための荻窪から利根川の河川敷まで毎日繰り返した日帰りドライブ、ゴルフをしながらのテスト飛行、戦前、戦中、戦後と時代も会社も変わるなかで、50年以上荻窪工場へ通勤した貴族、戸田康明(戦後、日産荻窪工場技術部長として糸川博士のロケット開発に関わる)、コーネル大卒でアメリカ流を貫いた中島飛行機総務部長、赤羽誠一。武蔵製作所横の競技場(現武蔵野市陸上競技場)の貴賓室には上野精養軒のコックが来て、軍特配の肉を料理していたという話。
楽しい思い出ばかりでは、もちろんない。荻窪事業所、武蔵製作所への空襲の様子、さらには敗戦直前の富山への工場疎開のいきさつなどは、体験者が語っておかなければ忘れ去られかねない話ばかり。
登場人物では、戦後は日本航空パイロット、後に常務となり、天皇訪米時の操縦士、よど号事件時の救助機も操縦したという陸軍大尉、小田切春雄も、別なところで調べてみたい。
エピローグの一文に、戦前から戦中を経て戦後まで一技術者、一社会人として生きてきた著者の矜持と苦しみが率直にこめられている。
正直言って、五十年前を思い出すと、懐かしさよりもむしろ言いようのない戦慄を未だに覚える。果たしてあれはいったい何であったのだろうか。悪夢というには余りにも犠牲は大きかった。航空発動機造りに賭けた私の青春が無駄な日々であったとは決して思いたくない。
時代、企業、社会、国家、現実、歴史。自分一人ではどうにもならないものに囲まれて、それでも誠実に生きる姿に尊敬の念を禁じえない。
さくいん:中島飛行機
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