出発点 1979 - 1996、宮崎駿、徳間書店、1996


『未来少年コナン』の再放送に合わせて、毎回、感想を書いている。街の本屋では、宮崎駿の新作『ハウルの動く城』に合わせて、関連の書籍が平積みされている。これまでのインタビューや映画制作の企画書を集めた本をみつけたので、年末に図書館で借りてきた。彼の作った作品に魅力を感じるだけでなく、確かに宮崎の考えていることにも共感するところが少なくない。

人殺しを平気でさせる戦争には反対だけど、究極の機械としての兵器は大好き。管理社会への反発。情報過多時代への不安と、それでも質のよい作品をつくろうという意気込み。テレビへの懐疑と劇場映画へのこだわり。大きな物語(理論やイデオロギー)への懸念と小さな物語(童話や昔話)への愛着。

それでも、発言や文章を読んでいると、いくつかどうしても納得できない点も残る。しかもそうしたいわば彼の思想の端々が、ちょうど彼が手塚治虫の初期のまんが作品には共鳴しながらも後年のアニメ作品には過剰にみえるほど嫌悪感を示しているように、私にはどうしても許容できない。

もう15年あまりも前、『となりのトトロ』をはじめて見たとき、舞台は関東地方であるのに最後にでる字幕では「このへんないきものは まだ日本にいるのです。たぶん。」となっていることが、地域の多様性を見逃し、画一的な日本のイメージを押しつけているように感じた。この一文は糸井重里が作ったものとは、最近まで知らなかった。

たかがアニメ作品のコピーではすますことができないものを、『トトロ』そのものに感じていたのかもしれない。宮崎自身による企画書を本書で読んで、その直感は間違っていなかったことを確認した。画一的なイメージは、最初から意図して作られたものだった。

この国はそんなにみすぼらしく、夢のないところになってしまったのでしょうか。
国際化時代にあって、もっともナショナルなものこそインターナショナルのものになり得ると知りながら、なぜ日本を舞台にして楽しい素敵な映画をつくろうとしないのか。
この素朴な問いに答えるには、新しい切り口と、新鮮な発見を必要とします。しかも、懐古や郷愁ではない快活なはつらつとしたエンターテインメント作品でなければなりません。(企画書「となりのトトロ」)

確かに日本で製作されるアニメ作品のなかには日本以外の、しかもステレオ・タイプ化の「西洋」をちりばめながら、世界のどこにもない街を舞台にしているものが少なくない。しかし、日本のある地域を舞台にした物語を「日本」と言い切ってしまうことは、今度は日本についてのステレオ・タイプを生み出すことになるのではないだろうか。

「もっともナショナルなものこそインターナショナルなもの」という一言ほど彼の考えを直接的に表しているものはない。ナショナルなものがインターナショナルなものをつくると考えていれば、リージョナルなものがナショナルなものをつくる、ましてやパーソナルなものがユニバーサルなものをつくるという発想は生まれない。『もののけ姫』の企画書でもこの考え方は踏襲され、さらにナショナルなものへと傾いている。

最近の歴史学、民族学、考古学によって、一般に流布されているイメージより、この国はずっと豊かで多様な歴史を持っていた事が判っている。(「もののけ姫」企画書)

実は『もののけ姫』は未見。それはともかく、ここでは大切なことが見逃されている。この国が豊かで多様な歴史を持っているのではない。豊かで多様な歴史から現在の「日本国」という国家が形作られてきた。言葉のうえでは些細な違いでも、認識としてはまるで違う。

最初に「日本」を設定し、しかもそれを現在の政治的領域、すなわち現時点で区切られた国境と同一にして見れば、どれほど豊かで多様な歴史も「日本史」の一部分でしかない。

現在は「日本国」となっている広い地域は、かつて多様な文化をもっていた。それが歴史的な経緯から偶然も含めた結果として、今は一つの国家をなしている。そう考えるべきではないか。

今の日本国は必然的にいまの領域をもつようになったのではない。ある地域は日本ではなかった可能性をもっている。また、いま日本国ではない地域も日本であった可能性がある。もちろん、良い悪いの判断は別にあるとしても。

だからこそ、自然にできた歴史国家ではなく、人民主権に基く近代国家として、少なくとも理念的には、不断に社会契約が更新される必要性と、可能性をもっている。

問題は宮崎駿に悪気がなく、むしろ善意からこういう発言をしているところにある。彼が保守派といわれる人々と意見をともにし「日本回帰」を標榜しているならともかく、ほかの文章を読んでいるとそうではなさそうにみえる。しかし、地域や地球の前に無前提に「日本」を設定することは、彼が内心抵抗する国民を操作される客体としかみなさない国家主義者に利用される恐れさえある。素朴なナショナリストは、その落とし穴にまったく気づいていない。

この傾向は宮崎駿一人に限ったものではない。いわゆる戦後知識人にしばしば見られる思考枠組み。宮崎が敬意を表している司馬遼太郎は、その典型といえるかもしれない。司馬遼太郎も未読。読む前からこの匂いが鼻について食わず嫌いになっている。

もう一つ、違和感が残ることがある。それは一言で言うならば、野心の問題。宮崎は情報と作品が洪水のように押し寄せている最近のメディアの世界を批判しつつ、そこへ一滴でも良質な作品を送り出したいと繰り返し述べている。そのために彼は制作会社の一社員を辞し、自ら制作会社を興し、スポンサーを募り、新しい作品を生み出してきた。

その作品は多くの人に感動を与える一方で、彼も認めるように制作集団のなかでは違法ともいえる過労を強いてもいる。また最近ではスポンサー企業も増え、関連商品も数え切れないくらい、しかも劇場公開前から拡販されている。つまり、泥の大河に注いだ一滴の清水のはずが、いまや宮崎作品だけでも、情報と商品の大洪水になっている。

この矛盾の第一の原因は、彼が売れすぎてしまったことにある。彼はすでに一映画監督ではない。多くのアニメーターを養う雇用主であり、アニメ産業の稼ぎ頭であり、日本映画産業の大黒柱になっている。そのうえ、今では文化全般を語る「日本の代表的知識人」の役割まで与えられている。

過剰な賞賛が過剰な期待になり、さらに一映画製作者にとっては過剰な負担になっていないだろうか。そうした社会の期待過剰は、彼にとって気の毒というほかない。作品の本質は見えなくなり、もともとはスパイスとして効かせたつもりのささやかな演出が「秘められたメッセージ」のように一人歩きさせられることもある。

いい作品を創っているといっても、労働基準法をはじめ社会の規範を逸脱することは許されない。野心の問題は根が深い。それはひとまず措くとしても、一表現者に対する過剰な期待や過剰で身勝手な読み込みは、誰にとっても益はない。

『出発点』を読んで、正直なところ、宮崎駿の言動にはすこし失望した。同時に自分がこれまで過剰な期待をもって彼の作品を読み込んでいたことにも気づいた。優れたアニメーターの生み出す作品世界を堪能するために、不要なコートを一枚脱いだような気もする。