英語について


ふだんは日本語で話したり書いたりしていても、必ずしも日本語の文法だけに従っているわけではない。私の思考回路の中では英文法は重要な一部分であり、少し学んだ仏文法もかすかではあるものの無視できない影響力をもっている。

たとえば、関係代名詞を使った名詞句から文章を思いつくことが少なくない。それが日本語の文章になると体言止めの連続になる。これは英語で読んだり書いたりして身についた習慣で、一種の癖といえるかもしれない。また時制や話法の考え方も外国語を学んで身につけた感覚。

英語の仮定法や、フランス語の接続法やさまざまな時制も、それぞれの言葉で使いこなせているわけではないのに、日本語で何かを整理して考えようとする時必ず働く回路になっている。こうした癖は一度身についてしまうと容易にぬぐえない。言い換えれば、私はしばしば英語的あるいはフランス語的に考え、それを日本語の単語にならべかえ、日本語の文章に表していることもある


最近「美しい日本語」に加えて、「日本語文法の独自性」を銘打った本をよく見かける。日本語の文法を分析すること、その独自性を明らかにすることは意味ある仕事。とはいえ、それは、一個人の思考回路を単純な一言語の語彙と文法によって理解することとは峻別されなければなるまい。

外国語を学ぶということは、ただ単語や言い回しを覚えることではない。その言語の思考法を学ぶことにほかならない。言語を学ぶことは、その言葉の単語や文法を覚えることだけを意味するのではない。その言葉のもつ思考方法を学び、身につけること。つまり、外国語を学ぶということは、母語に加えてより多様な思考方法を身につけることでもある。

さらに言えば、思考方法を身につけるということは、言葉遣いや論理の組立てだけでなく、身振りや表情、心の持ちようまでその言葉のもつ文化に適応させるということ

例えば英語で話すとき、母語である日本語で話すときより社交的で冗談もよく口に出る。身振りや表情もふだんと違うことが自分でもわかる。それは積極的に話さなければならない場面が多く、また言葉だけで充分に通じない者の間では、わかりやすい冗句で場になじむ必要性があるからという理由もある。


そればかりではない。英語(ここでいうのは、私が学び、使っている米語)のもつ、社交性や親しみやすさなども影響しているだろう。見方を少し変えれば、英語は社交性と親しみやすさの高い言語であるからこそ、国際的な業務や多様な言語をもつ人々が集まる会合で使われる、いわば世界の共通語になれたと言えるかもしれない

今書いたように、英語が使われるのは英語を母語とする人々と会話をするときばかりではない。むしろ、どちらも相手の言語が話せないような場合に、英語が共通する言葉として用いられることが多い。

このような場面で使われる英語には、相反する二種類の性質が並存している。一つは英語からの影響。英語を話すということは、英語の思考法、広い意味での表現法を身にまとうこと。中国語話者でもフランス語話者でも、英語を話すときには冗句や身振り、表情に何かしら英語ないし米語からの影響が見られる。


一方、非英語話者のあいだで交わされる英語には、英語と異なる性質もある。ここで英語とは、より正確には米語。米語は合衆国の製品、生活習慣、商習慣の普及とともに広がった。だから米語を話すことは、それを生み出したアメリカ合衆国の習慣と連動している点がある。その一方、非英語話者の間で使われる場合には、話者が二人とも合衆国へ行ったこともないということもありうる。

つまり、そこでは合衆国文化の影響より、話者が背景としている文化、そして話者の間で共通する文化が交わされる英語に影響を与える。例えば日本語話者と中国語話者が英語で会話する時、合衆国の地名や歴史をもじった慣用句、冗句や比喩は使われないだろう。むしろ共通する語彙、例えば食事、テレビ番組などが話題になり、生き生きとした比喩や冗句の材料として使われるだろう。また英語を話しながら漢字で筆談するという事態もあって不思議はない。


今、世界中で話されている英語には、もちろん単語や文法のなかに英語としての最低限の要素が残っている。それでも今、事実上、世界の共通語となっている英語はイギリス語でも米語でもない性質をもっていることも確かなことだろう

英語が世界の共通語というと、感情的な反対意見をもつ人も少なくない。この問題については、まず事実を受け入れて、なおかつ、共通語として流通している言葉が英語でも米語でもない性質をもちはじめていることをもっと肯定的に受け止めるべきではないだろうか。

私が英語を話すとき、明らかに日本語を話すときとは違う。とはいえ、それは自分が分裂していることを意味しない。どちらも同じ自分であり、一つの自分がいろいろな表現をしている。イギリス語でも米語でもない共通語としての英語という考え方をすると、英語を話すときの少し大げさな身振りも自分自身の性格の一つの表現であることがわかってくる。

共通語というのは、世界中に共通するという意味ではない。言葉とは相手との対話をする道具であり、共通とは対話をする相手と共通するという意味のはず。相手と自分のあいだに共通するものは何か、避けなければいけないものは何か。そういうことを意識せずに言葉を使うことはありえない。言葉は、相手に何かを伝えるものなのだから。


参考:本物の英語力、鳥飼玖美子、講談社新書、2016


碧岡烏兎