土を掘る 烏兎の庭 第三部
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9.8.07

ベネディクト・アンダーソン グローバリズムを語る、梅森直之、光文社新書、2007


梅雨のあいだ、マレーシアと香港へ出張があった。新聞書評で気になっていた新書を一冊もって、クアラ・ルンプール行きの直行便に乗り込んだ。『想像の共同体』の書名に記憶はあるものの、中身はあまり覚えていない。ところが、思いがけずに影響を受けていたらしい。例えば、「公定ナショナリズム」という言葉が、私のなかに出典の記憶もなく溶け込んでいたことに気づいて、自分でも驚いた

ナショナリズムとインターナショナリズムは表裏一体。アンダーソンは、過去の自著を批判しながらそう指摘している。一つの概念は、一枚のコインにはかならず裏面があるように、それに反する概念に裏支えされている。イズムと呼ばれる強固な概念ほど、同じように強固な反対概念に支えられている。

だから、強い思いをもった人ほど、コインを投げては返すように、その両面をたいして意識もせずに行き来する。それでいて、同じコインの裏表を返しているだけで、コインがしまってあった財布のことはいつまでも気がつかない。ナショナリズムが話題になると、強くそれを賞賛する人と激しくそれに反対する人ばかり脚光を浴びる。実は、彼らは左右対称の踊りをを同じ舞台で演じているにすぎない。

同じコインを投げているばかりだったり、同じ舞台を見ているだけでは、全体の本質はなかなか見えない。


揚げ足をとるつもりはないけれど、あえて同意できない点を一つ。

講演の最後にアンダーソンは英語以外を学べ、という助言を残す。その前段で、現在世界を覆っているビジネス言語としての英語が批判されている。

確かにビジネスの場面での英語の猛威は、もう抗えないほどの勢いではある。しかし猛烈な勢いで拡がっているがゆえに、英語が使われている現場ではもっと複雑な状況になっている

例えば、マレーシアや香港で話されている英語は、アンダーソンが批判の対象としている英語と同じ言葉だろうか。それはもう、彼が学ぶべきと奨めている現地の言葉ではないのか。植民地時代の以前からある、いわゆる土着の言葉が現地のもので、歴史の浅い言葉はそうではないとなぜ言い切れるのか。

英語は良くも悪くも普遍的な言語として存在しており、それに対立する現地の言語がある。そういう単純な思考にアンダーソンは陥っていないだろうか。


普遍語という言葉はない。地球人という人もいない。言葉は一人一人で少しずつ違う特殊なもの。人が一人一人違うことは言うまでもない。グローバリズムという実体もない。普遍は実体としてけっして顕れない。特殊な実体を通じてしか、普遍は顕れない。それはきっと人間一人一人が特殊な実体をもっているから

私が話す言葉が、マレーシアでも香港でも通じるのは、それが英語や米語だからではない。まして私が使う言葉が普遍的だからではない。私と私が話しかけた人のあいだに何らかの接点があるからにすぎない

現地の言葉を学ぶよりもずっと手軽で、しかも多文化理解にとって有益なことがある。それは自分の母語を話しかけられたときに自然に振る舞うこと。これは、ある意味では、相手の言葉を話すことよりずっと難しい。

とくに日本語話者は、どういうわけか構えてしまうことが多い。日本語で話しかけられているのに、相手の肌の色を見て、相手の母語が何かも聞かないうちから片言の英語で返したり、自分まで下手な日本語になったり。

相手がどの程度の語彙をもっているのか、どのくらいの速さで話せば聞き取ることができるのか。負担にならないように、でも失礼にもならないように振る舞うことはやさしいことではない。


結局、ここでも問題は、普遍なのか特殊なのかではなく、自分と相手の特殊な関係をどのようにとらえるかということになる。

アンダーソンの考え方や表現に問題があるわけではない。抽象的な概念を抽象的なまま伝える音楽や美術と違い、言葉で考えたり表現したりするかぎり、二項対立は避けられないものなのかもしれない。



uto_midoriXyahoo.co.jp